そのショーンバーグの本のセルの項に、セルがクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任して数年たったあと、自分の当初の目標に到達したと感じた時、「クリーヴランドでは、たいていの管弦楽が終えるところから、練習をはじめる」と豪語した。こういうことでは同僚の怒りを誘うのも当然だし、事実、彼のこれまでのキャリアには何度か人と衝突したエピソードがある。
"He withdrew from the Metropolitan Opera in a huff, under conditions that have never been fully made public."(腹立ちまぎれにメトロポリタン・オペラをやめたいきさつも、その後まだ、完全には公表されていない。)
そのあとも、セルはニューヨーク・フィルとも衝突したし、サン・フランシスコでも事件を起こし、指揮者エンリケ・ホルタと批評家のフランケンシュタインとぶつかりもした。「彼をよく友人たちは、セルを彼自身の最大の敵と呼ぶのも、こんなことがあったためである」(ただし、ルードルフ・ビングは、"Not while I'm alive."私の目が黒いうちは、そこまではいかない、つまり、ビングは自分こそセルの最大の敵だといっているのである)という一段がある。だから、例の一件は、よほどセルのその後のキャリアに深い関係があった出来事かもしれない。
けれども、こういう話は、もうこのくらいにしておこう。要するに、セルを考える場合、彼が自分の理想に憑《つ》かれた人らしい、ということをまず知っておくことが大切なのだ。そうである以上、この人は管弦楽を指揮して、徹底的に自分の考えでひっぱってゆくタイプに属していると見てもよいのではなかろうか。
では、彼の理想とは何か? 同じショーンバーグの本に、セルがP・H・ラングと交した長いインタビューからの引用がある。
"I personally like complete homogeneity of sound, phrasing and articulation within each section, and then — when the ensemble is perfect — the proper balance between sections plus complete flexibility — so that in each movement one or more principal voices can be accompanied by the others. To put it simply: The most sensitive ensemble playing."
原文のままの引用で申しわけないが、しかし、これは、一人の指揮者の考えをのべて、はっきりと、あますことなくいいつくしていて、しかも一言の無駄がない——つまり、あまりにも「美しい」表現になっているので、読者に原文のままくり返し読んでいただきたいと考えたからである。
ショーンバーグは、さらに、こう書き続けている。「セルはアンサンブルに関しては狂信主義者である。彼はまるで室内楽でもやるみたいにオーケストラを扱い、一〇〇人を越す楽員たちの一人一人が他のメンバーの演奏に注意深く傾聴するところまで、訓練しようと望む。彼は自分は水平線に——つまりポリフォニックに——きくが、たいていの指揮者はモノディックな聴き方をしていると考えている」。
これは、ショーンバーグがセルの言葉を要約して紹介したものだろう。評論家とか批評家とかいうものは、私はもちろんショーンバーグほどのベテランでも、これだけのことはなかなか、率直に、的確に、いえないものである。
と同時に、以上の二つの文章は、現代の代表的大指揮者ジョージ・セルの特徴を本質的なところで、ほぼいいつくしている、といって過言ではない。