セルは、そのあと、それも同じ年の大《おお》晦日《みそか》、たしかニューヨーク・フィルの演奏会できいた。ところが、この時のプログラムは、ヴァーグナーからの管弦楽の抜萃《ばつすい》ものばかり。初めから終わりまで、『タンホイザー序曲』だとか『ニュルンベルクの名歌手の前奏曲』だとか『徒弟たちの入場』だとか、これも細かいことは忘れたが、要するに、景気はよいが、半端なものばっかり。初めから、そういう予告であったかどうかは記憶がはっきりしないが、私はすっかり腹を立ててしまって、こんな音楽会をきかせやがって、セルなんてやつ、一生、二度ときいてやるものか! と、西洋流にいえば、彼をのろいながら下宿に戻ったことは、よく覚えている。
というのも、実は、私は、その日の午後、大岡、福田の大先輩に会った時、ニューヨークでは大晦日の夜、つまりシルヴェスターの夜は、タイムズ・スクエアの雑踏が見ものであり、十二時の鐘を合図に、街の人びとはみんなお互いに「新しい年を祝って」抱擁《ほうよう》し合う。「手近の人なら、どんな美人をつかまえて接吻したってかまわないのだぞ〓 おれたちは、それで、今夜は知人の家で夕食をごちそうになり、それから、おもむろに街に出かけることになっている。お前は、例によって、音楽会通いという話だが、ごくろう様なことだ」など、妙に気をもたせるような穏やかでない話の末、別れたのだった。
玩具箱《おもちやばこ》をひっくりかえしたようなヴァーグナー抜萃曲ばかり一晩中きかされて、せっかくのニューヨークの大晦日の景物をふいにして下宿に帰るなど、何と気のきかない話だろうと、私は、一層セルに腹を立てた。と、まあ、こんな次第である。
しかし、一夜があけて、元旦。その昼すぎ、近くの福田恆存の宿に出かけてみると、彼はまったく浮かない顔をして、しょんぼり椅子に腰かけていた。「ニューヨークはタイムズ・スクエアで美人をよりどり見どり抱擁できるなんて、どこのどんな阿呆が作りだした嘘か。まったくの出鱈目《でたらめ》で、なるほどやたら大ぜいの人間がもそもそ通りをうろついてはいたけれど、十二時の鐘が鳴ったって、誰もわれわれなんかに見向きもしないし、結局、くたびれ損の骨折り儲《もう》けさ。こんなことに見向きもしないで、大晦日の晩まで音楽会通いをしているなんて、やっぱり吉田もそう馬鹿というわけでもない、と大岡と話していたところだ」と、彼はいう。
「いや、どうしてどうして。こちらはこちらで、まったくつまらない音楽会をきかされ、お二人をうらやみ、セルをのろって、凍《い》てつく夜道をひとり淋しく宿に帰ったんだ。僕が思うに、あれはきっと、セルとニューヨーク・フィルでヴァーグナー名曲集とでもいったレコードでも入れるんだろう。演奏会はそのためのリハーサルみたいなものじゃないかしら。そんなものをきかされるなんて、いい面の皮さ」といって、二人で笑ったものだった。
あれから、もう、十年よりは二十年に近い時がたつ。
時が流れ、水が流れ、風が吹きすぎ、こちらは年ばかりとる。
こんなわけで、実は、セルのことは結局、一九六七年ベルリンでベルリン・フィルの演奏会できくまで、私はよく知らないでいた。