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世界の指揮者05

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: 私は、セルについては妙な聴き方をしてきた。聴き方というより、経験といったほうがよいかもしれない。私が、セルをはじめてき
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  私は、セルについては妙な聴き方をしてきた。聴き方というより、経験といったほうがよいかもしれない。私が、セルをはじめてきく機会をもったのは、一九五三年のニューヨークでだが、その時、私は、セルの指揮する『ローエングリン』だったか『タンホイザー』だったかをきくつもりで、メトロポリタン・オペラに出かけた。ところが入口で知人に出会い、その人が私をメトロポリタンの支配人のルードルフ・ビング(Rudolf Bing)に会わせるといってきかないものだから、ともかく楽屋のほうの入口に行った。受付を通って廊下に出ると、「ここで待っているように」というので、待つことにした。ところが、いつまでたっても帰ってこない。どのくらい待っていたか。やがて、彼女——私の知人は歌手に歌とそれから演技の基本、つまり舞台での身体の動きの訓練をつけるのを仕事としている中年の女性だった——が戻ってきて、「今日はとてもビングに会うどころじゃなさそうだ。彼は今、今夜の小屋があけられるかどうかで大変なことになっている」といったなり、またどこかに姿を消してしまった。何のことやら見当もつかず、私はただその場につったっているだけだったが、そのうち廊下にはいろいろな人が忙がしそうにあちらへ行ったりこちらへ行ったり、やけにざわついてきた。仕方がない。ヴァーグナーが流れたのなら、ここにいてもはたに迷惑をかけるばかりだと、私は帰りかけた。そこに、また、彼女が息せききってやって来るなり、私の袖《そで》をつかまえて、廊下の一方に引っぱっていった。その先にビングの部屋があり、その入口にビングが立っていて、私の顔をみるなり、手を差しのべて握手もそこそこ、「いや失礼した。今夜はどうにもならないから、お引きとり願って、またいずれお目にかかろう」という挨拶。不意に現われた外国の一介のおのぼりさん音楽批評家に対して、これはまた何と丁重なものだと、私も恐縮して、そのまま、宿に帰った。翌日の新聞をみると、ジョージ・セルがビングと大喧嘩《おおげんか》をして、「もう二度とこんなところで指揮棒をとるものか!」と、飛び出して行ってしまったと書いてある。もちろん、それをとりまいて、何や彼や尾鰭《おひれ》のついた記事がのっていたが、その細かいことは忘れてしまった。私の知人からも、電話で、何か話をきかされたが、これも覚えていない。このほうが、もっといろんなきわどい話がいっぱいあったのに、私は一向に好奇心もないので、くわしくききだすこともせず、電話をきってしまった。あとで、たまたま当時ニューヨークに居合わせ、始終顔をあわせていた福田恆存《つねあり》さんや大岡昇平さんに「だから、お前は音楽坊主で、ほかのことは何にもわからないのだ」とさんざん笑われた。それについて何かまた書く種があっただろうに、というわけだ。しかし私にいわせれば、要するに、芝居小屋の常で、興行の責任者とアーチストが喧嘩しただけの話。別に珍しくもあるまい。
 セルは、そのあと、それも同じ年の大《おお》晦日《みそか》、たしかニューヨーク・フィルの演奏会できいた。ところが、この時のプログラムは、ヴァーグナーからの管弦楽の抜萃《ばつすい》ものばかり。初めから終わりまで、『タンホイザー序曲』だとか『ニュルンベルクの名歌手の前奏曲』だとか『徒弟たちの入場』だとか、これも細かいことは忘れたが、要するに、景気はよいが、半端なものばっかり。初めから、そういう予告であったかどうかは記憶がはっきりしないが、私はすっかり腹を立ててしまって、こんな音楽会をきかせやがって、セルなんてやつ、一生、二度ときいてやるものか! と、西洋流にいえば、彼をのろいながら下宿に戻ったことは、よく覚えている。
 というのも、実は、私は、その日の午後、大岡、福田の大先輩に会った時、ニューヨークでは大晦日の夜、つまりシルヴェスターの夜は、タイムズ・スクエアの雑踏が見ものであり、十二時の鐘を合図に、街の人びとはみんなお互いに「新しい年を祝って」抱擁《ほうよう》し合う。「手近の人なら、どんな美人をつかまえて接吻したってかまわないのだぞ〓 おれたちは、それで、今夜は知人の家で夕食をごちそうになり、それから、おもむろに街に出かけることになっている。お前は、例によって、音楽会通いという話だが、ごくろう様なことだ」など、妙に気をもたせるような穏やかでない話の末、別れたのだった。
 玩具箱《おもちやばこ》をひっくりかえしたようなヴァーグナー抜萃曲ばかり一晩中きかされて、せっかくのニューヨークの大晦日の景物をふいにして下宿に帰るなど、何と気のきかない話だろうと、私は、一層セルに腹を立てた。と、まあ、こんな次第である。
 しかし、一夜があけて、元旦。その昼すぎ、近くの福田恆存の宿に出かけてみると、彼はまったく浮かない顔をして、しょんぼり椅子に腰かけていた。「ニューヨークはタイムズ・スクエアで美人をよりどり見どり抱擁できるなんて、どこのどんな阿呆が作りだした嘘か。まったくの出鱈目《でたらめ》で、なるほどやたら大ぜいの人間がもそもそ通りをうろついてはいたけれど、十二時の鐘が鳴ったって、誰もわれわれなんかに見向きもしないし、結局、くたびれ損の骨折り儲《もう》けさ。こんなことに見向きもしないで、大晦日の晩まで音楽会通いをしているなんて、やっぱり吉田もそう馬鹿というわけでもない、と大岡と話していたところだ」と、彼はいう。
「いや、どうしてどうして。こちらはこちらで、まったくつまらない音楽会をきかされ、お二人をうらやみ、セルをのろって、凍《い》てつく夜道をひとり淋しく宿に帰ったんだ。僕が思うに、あれはきっと、セルとニューヨーク・フィルでヴァーグナー名曲集とでもいったレコードでも入れるんだろう。演奏会はそのためのリハーサルみたいなものじゃないかしら。そんなものをきかされるなんて、いい面の皮さ」といって、二人で笑ったものだった。
 あれから、もう、十年よりは二十年に近い時がたつ。
 時が流れ、水が流れ、風が吹きすぎ、こちらは年ばかりとる。
 こんなわけで、実は、セルのことは結局、一九六七年ベルリンでベルリン・フィルの演奏会できくまで、私はよく知らないでいた。
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