《現代の指揮界》などという原稿を書いていることの空《むな》しさ!
芸術が、音楽が、現在私たちの知っているようなものとして人間の社会に存在しているのも、一つには、その人間の生活、生の営みのはかなく過ぎ去りやすいことへのアンチテーゼとして、永遠のものへの憧《あこが》れ、日常性からもう一つ高められた次元の世界への一つの予感であり、手がかりであるような何かとしてであるのだろうに、そうして、名演奏家とか、大指揮者とかに接した時の私たちの感激や感銘のなかには、その一つの要素として、その演奏が、私たちの前を横ぎって、そうして過ぎてゆく瞬間が「いや、こうも美しく充実した瞬間は過ぎさってゆくことはあるにしても、永遠に消滅するということにはならないので、何かが残るだろうし、私もこのすべてを忘れることはあるまい。少なくとも私が生きている限り、現在この瞬間に私の経験しているものは想い出となって生き続けるだろう」と信じないではいられないようなあるものに変わってゆくという、いわば「束の間に過ぎさるものの永遠性」とでもいった価値の転換の、私たちの精神の内部の世界での実現につながっていなければならないだろう。それなのに、わずか十年、十五年、二十年の歳月が経過するだけで、私たちの内でも、外でも、何とたくさんのものが、過ぎさり、姿を消してしまうことだろう。
音楽についてというのでなく、演奏と演奏家について書くということが、とかく、やりきれないほど皮相的で、あわれなことになりやすいのも、その理由は、演奏の本質によるというより、むしろ人間の心の深いところに潜在しているのであろう。