しかし、サバタについての私のイメージは比較的はっきりしている。私は、レコードで、モーツァルトの『レクイエム』とブラームスの『第四交響曲』、それからヴェルディの『レクイエム』の三曲をきいただけなのだが、ここで指揮しているのが、大家中の大家であることは、疑いようのない、確かな手ごたえで感知されるのである。何しろ古い録音だし、ことにヘリオドールのレコードは廉価盤というせいだけでもなかろう、このごろ私たちのききなれているものにくらべれば、本当に、腹立ちを通りこして悲しくなるほど、哀れな音でしかないのだけれども——それでも、名演は名演であって、こういう事実は、どうにも動かしようがないのである。
サバタは、数多くの彼の同国人たちのように、指揮者といっても、その中の一つの種目、つまりオペラに長じ、そのオペラの中でも、その一分派、つまりイタリアのオペラにいちばん活躍の重点をおいていただけの人ではない。イタリアもの、特にヴェルディの後年のオペラなどずばぬけてうまかったに相違なかろうが、その反面、バイロイトにも招かれた事実が示しているように、ヴァーグナーの楽劇にもよく、ことに『トリスタン』は得意中の得意だったらしい。
そういうことは、私は話としてきいたり読んだりするだけなのだが、たとえば、このブラームスの『第四交響曲』のレコードをきいてみると、イタリア人だからまずオペラがうまかろうなどという大雑把な考え方がどんなにくだらないものか、すぐ、わかってしまうのである。
サバタ、この人もまた、いわばポスト・トスカニーニの存在であって、トスカニーニ以前の主観的主情的なロマンティックな指揮者とはちがって、どんな細部にいたるまでも厳格に統制のとれた、実にきちんとした音楽をつくる人なのだが、それでいて、この人には厳しさを、冷たさ、鋭さといったところまで、一面的に追いこんでゆくところはない。厳しいが、同時に優しいのである。いや、あるいは、これは心情の優しさというものでなく、もっと感覚的な甘美な香りというものかもしれない。表情は比較的むき出しに率直に出てくるのだが、それでいて露骨な、俗悪さに堕さない。そのことは、この『第四交響曲』の、たとえば、第二楽章のアンダンテ・モデラートによく感じられるのであって、ここでのサバタの見事な歌わせぶりは、フルトヴェングラーやヴァルターとはもちろんトスカニーニとも際立ってちがうものでありながら、わざとらしさはまるでない(譜例1)。
この第二楽章などは、南の国への憧れを身に噛《か》まれるような想いにひたっているブラームスにとっては、まさにこうであってほしいような演奏であるのかもしれない。憂鬱だが、暗くなく、重苦しくないのである。
それはまた、終楽章のパッサカリアにもあてはまる——あるいは、このほうがもっと典型的にあてはまるというべきかもしれない。ここでのサバタのとったテンポは、各変奏の性格に応じて変化が与えられているのはいうまでもないが、基本的には、出発の際の比較的速めにとったそれを守りきっている。ブラームスの与えた発想記号はAllegro energico e passionatoというのだった。これは速度の指定であるよりはむしろ、この音楽の性格の指定ととるべきだろうし、事実、多くの大家、名家が、ここで比較的ゆっくりしたテンポをとっている。パッサカリアという形態に結びつく様式感は、音楽が幅広く、重厚に流れることを予想させこそすれ、快速で進むのを期待させはしない。
だが、サバタのは、エネルジコで、パッショナートではあっても、重苦しい陰影がつけ加えられるのでなくて、ひたすら一義的に力強く熱情的なのである。私が、サバタをきいて、否応なしにそこに大家の指揮を感じとるのは、こういう点からでもあるのだ。堂々としていて、しかも余計なもの、あるいはとかくまといつきやすい装飾的な感情のニュアンスが、はっきり排除されているのである。
造型性、彫塑性に富んでいるといってもよい。