今、この原稿を書きながら、どうしてかな? と考えてみているところである。私のクリュイタンス論——というのも、大袈裟《おおげさ》だが——は、このことと深い関係があるだろう。
私は何も自分がきいた音楽会、音楽家のすべてについて明確な思い出をもっているなどとは、考えたこともなく、そんな記憶力などというものは、超人的であるというより、むしろ、何か別の頭脳の作用で補われ、つけたされたものではなかろうかと疑ってみたくもなる。少なくとも、私自身についていえば、それはありえないことである。
しかし、では音楽会というものはみんな忘れてしまうものか、といえば、もちろん、そうではない。こんなことは、何もわざわざ書く必要もない。みんなが知っていることだ。だが、何が残り、何が消えてゆくのか? 私たちは、何をきこうと考えて、演奏会に出かけて行き、その時、何をつかんで帰ってくるのか? そのつかんだものは、どのくらい強く深く、私たちの内部で働く力となり、その作用はどのくらい、長つづきするのか? もし、ある音楽、ある音楽家から与えられた感銘が比較的早いうちに、色あせてしまうとしたら、それはどういう感銘だったのだろう?