現代とは、ピアニストであれ、ヴァイオリニストであれ、指揮者であれ、よい音楽家とは、まず、「うまくなければならない」時代である。「うまい」だけでもだめで、そのうえに「音楽」が加わらなければならないのだが、とにかく「うまくない」というのでは初めから問題にならないというのが、現代の支配的傾向である。
だが、私が指摘するまでもなく、現代は「うまい人」ももう山ほどいる時代でもある。クレンペラーは、少なくとも、私がたった一度接した限りではけっしてうまい指揮者でないどころか、むしろ不器用な人と見えた。その時、彼が健康的に恵まれぬ状態にいたのだろうということは、前に書いた。だが、そうでない時には、彼はうまく、器用に棒をふるのだろうか? 信じにくい話である。ショーンバーグの本にもあるように、クレンペラーは、実演でも、練習でも、実にたくさんのエピソードのある人だが、それらに共通しているのは、ユーモアやチャームよりも、真剣さ、本当に音楽に身も心も捧《ささ》げつくした無私の奉仕の精神、強い責任感の持ち主、それだけにまた、やや重苦しく、小まわりのきかない、ときには人を人とも思わない倨傲《きよごう》な人物ともみられなくはないけれども、スケールの大きさと音楽のほりの深さ、堂々たる力量感の充溢という点では、同僚たちの群をはるかにぬいた巨大な存在という印象を与えずにおかない点だろう。
マーラーが、クレンペラーについて「これは大指揮者になるべく運命づけられた青年だ」といったというのは有名な話だが、実際、その予言は実現した。世間的な意味で、キャリアに何か中途半端なところがあったとすれば、それは、クレンペラーの責任というより、さっき書いたように病気や災難にやたらと会った彼の不運、それにもちろんナチの出現と亡命、戦争の影響といったものを考えあわせてみるべきなのかもしれない。
しかしレコードに関する限りは、晩年のクレンペラーは、レッグという世紀の名プロデューサーの知遇を得て——というより、レッグが、クレンペラーの偉大な才能を敬慕するあまり——、ロンドンのニュー・フィルハーモニアという管弦楽団をいわば彼の準専用楽団としてあてがわれ、それを思いのままに使用して、大量の録音を遺すという運に恵まれることになった。
そのレコードを、私は今日までそんなにたくさんきいてはこず、クレンペラーといえば、まず先にふれたベートーヴェンの『第五』をまっさきに思い出すわけなのだが、レコードでは、『第四交響曲』を先頭に彼の指揮したマーラーを比較的よくきいており、また、それだけ好んでいる。
クレンペラーのマーラーは、たとえばバーンスタインのそれにくらべれば、その表現のすべてにわたって、ずっと刺激的でなくきこえる。これは単にテンポがずっと遅めであり、ダイナミックにも、バーンスタイン盤のようなあの燃え上がるような華々しさ、艶《つや》やかさといったものがないだけでなく、リズムのうえでもしばしば毒を含んだ鋭さとでも呼ぶべきほとばしりがなく、サッカリン的な甘ったるさと感傷性が欠けている。だから、何か気がぬけたように、思う人もあるかもしれない。『第四交響曲』の演奏もそうである。
たしかに、ここには全体として、バーンスタイン盤にあった、あの炎のようなもの、身をかむような憧《あこが》れの苦しい迫力はない。憂愁といい、歓喜といい、ここではむしろ過ぎさったものへの想い出のように、ヴェールによって隔てられたものであることが、しだいにわかってくる。ここで歌っているのは、優しさであり、根本的には肯定の精神なのである。
どうして、こういうことになるのか?
テンポが、一般にはずっとゆるやかなのはいうまでもないが、緩徐楽章では、むしろ速いくらいで、バーンスタインの場合と同様、冥想《めいそう》、省察の音楽ではあっても、密室の息苦しさからは解放されており、この部屋には夜の空気がさわやかに流れこんでくる。それは、終曲の第四楽章でのオーケストラの扱いが、これほど控え目で、歌のうしろに隠れながらしかも表現としての自由と微妙をつくしている点にもみられるように(スコアには、この終楽章の頭に、指揮者への注意として、「ここでは、歌手の伴奏を極度に慎み深く控え目にすることが、絶対に重要である」とマーラーの書きこみがあるのだが)、この演奏で指揮をしている人間が単に老練とか何とかを越えて、経験と成熟によって大きな知恵をもつまでになった芸術家であることを証明している。
クレンペラーは、マーラーが自作を指揮するのを実際に知っていたのだから、ここできく演奏は、マーラーの考えに忠実な、したがって最も正統的なものだという考え方があり、そういうこともわからなくはないわけだが、それだけでは、どうしてこれがヴァルターのそれとちがうかという問いに答えるのはむずかしかろう。ブルーノ・ヴァルターもマーラーの直系の弟子といってもよい関係にいたのだから。
私の考えでは、この演奏の最大の特質は、あらゆる意味で、「誇張」「一つの面の他の面を犠牲にした強調」というものがみられない点にあるのではないかと思う。
演奏における「誇張」ということを、私は単純に悪い意味にだけ使おうと考えているのではない。そこに、この問題は、いずれ、どこかでゆっくり考察してみるに値するものを含んでいる。しかし、クレンペラーに関する限り、この大家は、ベートーヴェンから、ブラームスから、ブルックナーから、マーラーから、「誇張」することなしに、実に大きなプロポーションをもった音楽をひき出すことを知っている、実に類まれな人である、と私には見えるのである。あるいは、むしろ、「一面に執着しない」からこそ、大きなプロポーションが浮きぼりされてくるのだ、というべきだという人もあるかもしれない。しかし、こういう言い方から、「好々爺《こうこうや》」的円満さの演奏を想像してはいけない。クレンペラーのは、そういった穏当主義とは正反対の厳しいものである。その厳しさが誇張を禁じるのである。