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世界の指揮者21

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: クレンペラーのレコードというと、何しろやたらとたくさんあり、それも、ブルックナーだとかマーラーだとか、あるいはバッハの
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  クレンペラーのレコードというと、何しろやたらとたくさんあり、それも、ブルックナーだとかマーラーだとか、あるいはバッハの『ロ短調ミサ』、ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』、あるいはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の全曲といった具合だから、私は、これまでにそれを全部きいたわけでないどころか、これから先も、とても一渡りきき通すことさえできないだろう。
 だが、私が、十年以上も昔、一度きいたことがあるだけで、よくもわからずにすごしてしまった大指揮者についてもう一度、関心をそそられた——というより、正確には、これは大変な人なのだと改めて感じたのは、先年ヨーロッパに一年ほど滞在していたおり、クレンペラーがヴィーン・フィルハーモニーを指揮してベートーヴェンの『第五交響曲』を演奏するのを、ラジオの中継できいた時である。
 これはすごかった。あとにもさきにも、あんなに大きな拡がりをもった『第五』をきいたことはないといってよい。あとで園田高弘がベルリンに来ていっしょに食事した時、クレンペラーの『第五』がヴィーンの音楽祭でセンセーショナルな成功をおさめ、批評家の中には、「私は彼の前にひざまずいて感謝する」とかあったのを知っているか? ときかれ、即座にああ、あの中継できいた『第五』のことか、と思ったものである。
 この時の演奏で、私が特に印象づけられたのは、全般的にテンポのとり方が極度にゆっくりしていることだった。そのために、聴き手は、普通私たちがなれている快速なスピードで進められ、全体の構造をいわば大きなパースペクティヴの下に把握《はあく》するのに適した行き方とは、正反対に、ゆっくりしたテンポのために当然生ずる細部の細かいニュアンスづけ、それからクレッシェンド、ディクレッシェンド、アッチェレランド、ラレンタンド、テンポ・ルバートといったいろいろに変化するダイナミックとテンポとの相関関係の妙味をたっぷり味わうことになる。
 こう書くと、何かひどく古めかしい演奏をきかされたような気がするかもしれないが、そうではないのである。
 クレンペラーについては、ヴィーラント・ヴァーグナーが、かつて「古典的ギリシア、ユダヤの伝統、中世のキリスト教精神、ドイツのロマンティシズム、現代のレアリスム、彼が、ほかにまったく類のない独特な指揮者である所以《ゆえん》は、こういったものの混在にある」といったことがあるそうだが、事実、クレンペラーには、実に、いろいろの異質な、普通の人の場合ならば当然矛盾しあい、相排除しあうはずのものが、ごたごたといっしょになっているのである。
 だから、ベートーヴェンにしても、バッハにしても、ブルックナーにしても、クレンペラーの指揮できくと、現代一般にきかれるものとはかなり遠いものでありながら、しかも古くさいという感じはしないのである。むしろ、名指揮者ののこした演奏でも、ひところ流行はしたが今はすたれてしまったという行き方もあるのであって、そういうもののほうが、よっぽど古くさくきこえるものだ。同じことは、今日評判の高い指揮者について——いわゆる大家から中堅、新人にいたるまでの各世代にわたって——いえるかもしれないので、今日の流行児で、案外早く忘れられる日のくるような予感のする人もあるわけだが、クレンペラーについては、そういうことはないのではないか。
 ただ、私がきいた限りのレコードでいっても、この人の指揮には、むらがあり、出来不出来が多少あるらしいのはやむをえない。
 
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