クナッパーツブッシュという人のつくる音楽には、何か自然の力の爆発とでもいうか、一度流れ出したら、ちょっと止めどのないようなものの躍動があった。そういう点がまた、あくが強すぎるとか何とかいって、彼が敬遠されるもとともなったのだろう。実際また、彼のヴァーグナーには、ときにあまりにも猛烈なクレッシェンドがあったりして、少し神経の細かいものにはついてゆかれないものがあることは、私にもわかる。そういうことは、『クナッパーツブッシュの芸術』とか何とかいう呼び方で、彼の指揮したヴァーグナーの演劇からの断片を集めたものとか序曲集とかいったレコードでもよくわかるのだが、そういうものの中では、私は、『ジークフリート牧歌』を、最も好んでいて、たびたびきく(私の持っているのは米国盤のWestminster WST—一七〇五五というレコードである)。すでにこの『ジークフリート牧歌』というのが、ヴァーグナーの手になるごく珍しい、珠玉のような器楽曲であるが、これをクナッパーツブッシュ特有の、あのたっぷりしたテンポで、控え目な節度をもって、しかし、全然アカデミックな冷たさや四角張った生硬さをもたずに、柔らかく、暖かく演奏されるのをきいていると、日ごろきくのとはまったく別のヴァーグナーをきく思いがする。しかも、この曲は、弦楽を主体に、全体が柔らかなトーンで書かれている。その中でコローの画のように、管楽器による若干の色どりが、目立たないが非常に効果的に、つけ加えられているのである。それがまた、クナッパーツブッシュの指揮では、実によいアクセントを身におびていて、遠く仄《ほの》かな郷愁のようにきこえてくる。
ヴァーグナーにしてみれば、これは念願であった長男の誕生を祝うというただそれだけの軽い気持の作品だったかもしれないが、きいていると、けっして雰囲気《ふんいき》だけの音楽でなく、実にいろいろなものが入っているし、いろいろなことがその中で起こっているのがきこえてくる。いってみれば、たいていの作曲家の交響作品のいくつかの楽章をよせ集めたものより、もっと多くのことが、このわずか十五分内外の曲の中で生起するのである。クナッパーツブッシュがこれを指揮すると、この曲が、ほとんど十九分もかかってしまうのは事実だけれども、それはただ彼のとるテンポがおそいというだけでなく、彼がやるとそのくらいたくさんのものがきこえてくるということの結果なのである。ドイツ印象派の最高のサンプルがここにあるといってよかろう。