そのときトスカニーニが出したという簡単な声明"The sad time has come when I must reluctantly lay aside my baton and say good-bye to my orchestra."(心ならずも指揮棒をおき、私のオーケストラにさよならをいわねばならぬ悲しい時がきた)は、私は今でも覚えている。これこそ必要なことしかいわない、簡潔で非感傷的な、彼の演奏そのままの言葉だと痛感したものだった。
晩年のトスカニーニは、スポンサーの大石油会社が特に彼のために組織した交響楽団(例のNBC交響楽団)を使ってのラジオの公開放送にしか出演しなくなっていた。会場はカーネギー・ホールだった。公開放送なので、切符は無料なのだが、それだけにまたその入場券を手に入れるのがやたらとむずかしかった。申し込みが多いから、結局、全部抽選となる。したがって当たらなかったら、いくら待ってもチャンスがこない。現に何年間もいつも申し込んでいて、まだ一度も当たったことがないという人も私は知っていた。金が大きくものをいうアメリカのような国で、たまに金の威力の全然きかないことがあったりすると、これはまた、やたらむずかしいことになるという実感をもったのは、そのおかげである。
まあ、こんなことをいくら書いていても仕方がない。このほうは『全集』第八巻で読んでいただくことにしよう。
私は彼の棒では、ヴェルディの『仮面舞踏会』、ボイトの『メフィストーフェレ』といったイタリア・オペラの演奏会形式の公演をきいた。純粋な器楽をききたかったが、このほうはついてなかった。しかし、ヴェルディやボイトはさすがによかったし、彼の引退のきっかけになった最後の演奏会のプログラムは、ヴァーグナーの楽劇ものだったから、あのころのトスカニーニはずっと舞台用劇音楽をふりたがっていたということになるのかもしれない。日本では、主としてレコードの関係で、トスカニーニというと器楽の指揮が中心になったイメージが先にくる。それにトスカニーニ自身ももちろん、器楽の指揮に絶対の自信をもっていたにちがいない。けれども、彼の出発点はオペラの管弦楽の中でのチェリストとしてだし、指揮者としてのデビューも、正規の指揮者の急病か何かで、ヴェルディのオペラを突然ふるはめになったためだったということは、忘れてはならないだろう。これは有名な話だから、誰も知っているだろうが。
しかし、彼が、実際のオペラというか、舞台にかけての上演をはたして何年までやっていたのか。正確なことは知らないが、これはもうかなり前からやらなくなっていたのも、事実である。オペラは、いうまでもなく、なかなか楽譜にある通り正確には演奏されない種目である。トスカニーニのような何よりも正確、精緻《せいち》を尊んだ人は、だから、いつも非常に腹立たしい思いをしていたに相違ない。何もそのかたきを器楽でとったというのではなかろうが、あの偏執狂に類するほどのアンサンブルの正確への追求は、積年のオペラでの経験から生まれてきた痛恨にさいなまれつづけた精神の均衡回復の欲求として考えてみることもできるわけである。それに、例の楽譜へのあくなき忠実性の尊重ということも、彼のオペラの原型というか、典型的体験であったヴェルディの音楽が要求するところと深くむすびついていたのであって、ヴェルディは、歌手たちに何よりも厳密に書かれた楽譜の通り演奏することを心掛けるように求めた大オペラ作曲家だったのだ。
歌うことの魅惑と、清潔な演奏とは、矛盾するどころか、絶対に一致すべきものでなければならない。音楽であるかないかは、その前提にあわせて判断されるので、これが最低限の資格なのである——このヴェルディの要求は、また、トスカニーニの信条でもあった。