ブッシュは早くから指揮者の経歴に入ったが、初めは——当時の人たちがみんなそうだったように、ドイツの地方小都市の小管弦楽団の指揮者をして、さんざん経験を積んだ。ことにバート・ピュルモンの温泉場の管弦楽団を指揮して、非常にたくさんのことを学んだあと、アーヘンを経て、マックス・シリングの後任としてシュトゥットガルトの指揮者から一九一九年同地のオペラの指揮者となった。ここで彼ははじめて、オペラとの交渉をもつことになった。だが、そのあとF・ライナーの後任としてドレースデンのオペラの指揮をうけもつようになったのが一九二二年。この土地での、一九三三年にドイツを離れ、亡命生活に入るまでの彼の十数年の活動。これが指揮者フリッツ・ブッシュを今世紀前半のドイツの代表的指揮者というか、指揮界の中心人物の一人としたキャリアの中核となる。というのは、彼は、この間、R・シュトラウスの『インテルメッツォ』と『エジプトのヘレナ』、ブゾーニの『ファウスト博士』、ヒンデミットの『カルディヤック』、クルト・ヴァイルの『立て役者《プロタゴニスト》』、シェックの『ペンテジレア』、カミンスキーの『ユルク・エナッチュ』といったオペラの初演を手がけた一方、特に『オテロ』『ファルスタフ』を中心にドイツにおけるヴェルディのオペラの上演に画期的な成果をおさめたからである。それまでドイツでは、ヴェルディは、なるほど客をひきつけはするが、芸術的内容のあまり高くない出しものの作曲家といった程度にしか見られてなく、ヴァーグナーにくらべれば、まるで問題に値しない音楽家として扱われていたにすぎなかったのが、このドレースデン・オペラにおけるフリッツ・ブッシュのヴェルディ公演によって、そこに、ヴァーグナーと並んで十九世紀のオペラの最も充実した実りがあることが明らかにされていったのだった。つまりブッシュは、ドイツにおけるヴェルディ=ルネサンスの中心人物だったのである。もちろんブッシュのヴェルディ上演は後年の作品に限ったわけではなく——ただし『アイーダ』は比較的まれにしかとりあげなかったらしい——『ドン・カルロ』にも多大の努力が傾けられたし、それにひきつづいては、『運命の力』『マクベス』そうして『仮面舞踊会』といった、いわば中期のヴェルディにも力点がおかれ、特に一九二六年に行なわれた『運命の力』の公演はドイツのオペラ上演の歴史のうえでぬかすことのできない名公演として、今でも称《たた》えられている。このヴェルディ中期の作品は、当時はイタリアでさえあまり手がけられていなかったのだが、この成功のおかげで、また復活したとさえいわれている。
その線での頂点は、おそらく、一九三二年の秋、ベルリンの市立オペラに招かれて、ブッシュが演出家のカール・エーベルト、装置家のカスパール・ネーアーと組んで行なった『仮面舞踊会』の上演であろう。これは歴史的な名演として、今でも語り草になっている。ブッシュ自身も彼の本(Der Dirigent, Atlantis, 1961)で、この時の話を書いているが、この名公演のかげには、ブッシュがあらゆる困難にもめげず、どんな手間も煩わしさも厭《いと》わず、最初の小節から最後の小節まで、一つ一つ演出家から歌手の一人一人にいたるまで、完全に納得がいくまで打合わせをし、練習をした、その巨大な努力があったのである。類の少ない徹底的に良心的な仕事ぶりと責任感。しかし、芸術の成果は、それだけでもまた、完全に得られるものではないのであって、努力は、何のために、どこに向けての努力であるかが重要なわけだ。それについては、だんだんふれていこう。
ブッシュは、この『仮面舞踊会』の大成功で、ドレースデンからベルリンに移ることも考えなくはなかったらしいが、何しろ、当時のベルリンは国立オペラ、市立オペラ、それにクロール・オペラと第一級の歌劇場が三つ並び立ち、R・シュトラウス、フルトヴェングラー、ブルーノ・ヴァルター、クレンペラー、ヴァインガルトナー以下一流中の一流のオペラ指揮者がひしめきあっていたのだし、そのうえにマックス・ラインハルト、ベルト・ブレヒト、エルヴィン・ピスカートル以下の演劇界の天才、秀才たちも腕を競いあい、音楽と言葉とその両方の劇場の活動の殷賑《いんしん》と水準の高さは未曽有《みぞう》のものがあったらしい。
しかし、それはまた、ナチの黒い影が日ましに大きくなりつつあった時でもあり、ブッシュはそれやこれやで、ベルリンのオペラに移るどころか、翌一九三三年のナチの政権掌握を期にドイツを離れることになる。
そのあとは、ブエノス・アイレスのコロン劇場に行き、それからストックホルム、コペンハーゲンの各地を経て再び南アメリカに移り、死んだ時も、たしかにアルゼンチンの市民としてだったと思う。
しかし私たちにとって、その後のブッシュの活動で最も関係が深いのは、彼が一九三四年以来、ずっとロンドン近郊のグラインドボーンの夏の音楽祭でのオペラ上演に主導的役割を演じていた事実で、これがあればこそ、一つには、私たちはあの『フィガロ』や『ドン・ジョヴァンニ』、それから『コジ・ファン・トゥッテ』のレコードをきく機会が与えられることになったのだし、もう一つは、彼のすばらしい業績のおかげで、歌手を細君にもった一人の金持ちの音楽好きの思いつきではじまったグラインドボーンの仮設劇場でのオペラ上演が、戦後のイギリス社会の変化で金持ちが金持ちでなくなり、そういう意味でのパトロンがなくなったあとも、今日まで、夏のイギリスの誇るべき行事として続行されるにふさわしいものとなりえたのである。