その彼のヴァーグナーは、私には、とてもおもしろい。ここではもう、それがどういうことかを細かく書くわけにいかないが、その本質を一言でいえば、トスカニーニのハーモニーとダイナミックとの相関関係が、つかみやすいからだ。
誰も知っている例でいうことにすれば、『ローエングリン』の、それもあの威勢のよい第三幕への前奏曲をきいてみるがよい(譜例6)。
こう単純化して書いてしまえば、単純な行進曲でしかないが、あのヴァーグナーの洗練の極みとでもいうべき、オーケストレーションの中で、星のきらめくような微光から、月の冷たい光、あるいは熾烈《しれつ》な太陽の照りつけにいたる、星辰《せいしん》的な光の全音階にわたる光彩の変化と、それに応じてくっきりと、しかも味わい深いニュアンスをもって変化するダイナミックの動きを実現したトスカニーニの演奏は、ゲルマン系のどんな名家の指揮に比較されても、優に自分の存在を正当化できるだけの高さと独自性をもっている。めまぐるしい動きの中への色とりどりの光の浸透とでも呼ぼうか。
それと根本的には共通することがトスカニーニのドビュッシー(たとえば『海』)についてもいえる。なるほど、彼のは、ニュアンスの芸術であるよりは、はるかに立体的で彫刻的な硬度と苛烈さをもっているかもしれない。そこでの光はずいぶんまぶしい。しかし、そこからはまた、フランス人の指揮ではめ ったにきかれない強烈な大洋の香りが立ちのぼってくる。あらわにされたリズムと音色に、旋律の雄弁(あのチェロの旋律にきかれる、落ちつきとカンタービレのまったく一回限りの調和!)が加わっているのである(譜例7)。
トスカニーニから離れたあと、間もなく、NBC交響楽団は、シンフォニー・オブ・ジ・エアと改称されて日本に公演に来たことがある。指揮者が凡庸でずいぶん損をしたが、あれをきいた人は、少なくともオーケストラをきく耳のある限り、あのオーケストラこそ、本当の名人ばかりの粒よりの楽員からなりたっていたもので、あんなものはもう二度とつくられることはあるまいと、考えたのではないだろうか。アメリカのロックフェラー財団と密接に関係のあるソコニー・オイル・カンパニーが金に糸目をつけずに一人一人粒よりの名手を集めてトスカニーニの自由に提供したオーケストラだったわけで、そもそも、そういうものが生まれえたということ自体がすごく「アメリカ的なこと」だったのである。しかし、その《アメリカ》は今はない。アメリカは変わった。それをトスカニーニのせいとか何とかいうのはまったく誤解にもとづく。久しぶりNBC交響楽団をきいて、私は懐旧の念と、歴史の変転のすさまじさに、一瞬、とまどう心持ちがした。
トスカニーニのあの、個々の時代の好みからぬけ出したのだから千年たっても錆《さび》つくはずがないと思われた、青銅に刻みつけたような果断痛烈な演奏様式でさえ、いつの間にか、歴史の向こう側にゆきつつあるのだ。人間のなしとげたものに、真の永続性をかちえたものは果たして何があるのだろうか?