しかし、マゼールのベートーヴェンは、すばらしい! もっとも、私のきいたのは、一つは例の東京でやった『ミサ・ソレムニス』であり、もう一つは『フィデリオ』である。
前者は、今ではもう伝説的なものになったが、それというのも、演奏自体も本当に迫力のある、そうして力強い真実味にあふれたものだったせいもあるが、もう一つは、当夜それを実際に耳にするまで、人びとは、まさかマゼールがベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』をあんなに演奏する性格の音楽家だとは信じていなかったせいも、ありはしまいか。少なくとも、私は、あの時まで、それを信ぜず、したがって、演奏が進むにつれて、最初のやや傍観的な気持が驚きに変わり、その驚きが、驚嘆に変わり、感激で終わるといった、聴き方をしたわけだが、こういうことは、私のこれまでの音楽会通いの全部を通じても、そう何度もあることではなかった。
私は、この『ミサ・ソレムニス』について、いまだに何も書く気がしないのである。どうもうまくできそうもない感じがするのである。読者に申しわけないが、省略させていただく。ただし、私がマゼールを現代を代表するにたる指揮者の一人と認めたのは、この『ミサ・ソレムニス』の演奏に接して以来のことである。
もう一つの『フィデリオ』のほうには、幸いなことにレコードがある。私は、日本でのこのレコードの評判については何も知らないが、今度マゼールについて書くに当たって、改めてきいてみて、とてもよいことをしたと思った。私は、オペラをレコードできくことはほとんどない。したがって、オペラのレコードもほとんどまったく買わない。しかし、もし二枚続きで何かおもしろいレコードでもあったら買いたいが、という相談をうけたら、今のところは、まず、このレコードをすすめるだろう。そのくらい、これはりっぱな出来ばえであり、おもしろいレコードである。
『フィデリオ』のレコードには、例のカール・ベームが指揮した名盤がある。たしかにこれも見事なものである。だが、欠点——というより、弱いところもいくつかある。まず、そうして特に、管弦楽がちっとも特別によくない。ベームがドレースデンの国立歌劇場管弦楽団を好む理由はよくわかるし、たしかに悪いオケではない。しかし、この名楽団も残念ながら、昔日の比ではない。それははっきり認めておかなければならない。そのほか歌手の中にも、不満がある。
だが、もちろん、くり返すが、全体として、これは高い水準の出来ばえである。しかし、これは、舞台の上での劇作品というより、むしろ、オラトリオみたいな面のより強く正面に出た演奏ではないだろうか? 少なくとも、マゼールのレコードをきいてみると、この曲が本来どんなに劇としての強力な緊張にみちたものでありうるかがわかるのである。
そういうことは、この盤で、たとえば、シウッティの演じているマルチェリーナが(第二番のアリア)普通のドイツ人がやるよりもっと甘い、もっとロマンティックな、ヴィブラートの多いドイツ語の歌になっていることからはじまって、第三番の有名な四重唱が、実に意味あり気な管弦楽の前奏があってから、とてもアンダンテ・ソステヌートとは信じられないほどおそいテンポのカノンとして歌い出されてきたりするあたりでは、私などには実は、まだはっきり感じられなかったのだが、そのつぎの第五番の三重奏になって、管弦楽に実に硬いアクセントをもった不協和音が響き出すころから、だんだん、マゼールの感じ方と考え方とがきこえてきたのである。
第七番のピツァロの出の場での凄《すご》み(もっとも合唱は、少なくともこのレコードでは、背後にかくれて弱すぎる)。それに続く、第八番の中で、「地下牢《ろう》に忍び込み、一刺しに」の次の小節に出てくる金管ののぞっとするような閃《ひらめ》き(譜例1)。
第九番のレオノーレのあの唯一の長大なアリアにいたっては、はじめの管弦楽の動機からして、まるで短刀を片手に捨て身で突っこんでくる暗殺者を思わせるほどのたけだけしさ、兇暴《きようぼう》さである(譜例2)。
この調子で書いていったらきりがない……。
要するに、このマゼールの指揮した『フィデリオ』は、血の気も凍るような冷酷と血なまぐさい残忍さと、どんな闇よりも深いかもしれない絶望とに、紙一重のところまで、迫っている。
第二幕のはじめ、ロッコと二人で地下牢に入り、墓穴を掘っているレオノーレがロッコとかわす(オイレンブルクのポケット・スコアで、四三二ページ、アンダンテ・コン・モートと記されたあたりからの)会話にも、異常な冷たさがある。
総じて、これできいていると、マゼールの「ベートーヴェン」を演奏するうえでの最大の武器が——バッハの時のあのメトリックなアクセントに匹敵するものとして——実にいろいろのクレッシェンドの使い方となって現われているのに気がつく。長くかかって、じわじわともり上がってくるもの。ときにはまた単刀直入に、アッという間にぐっと迫ってくる感じのそれ。
その例の一つは、この劇のクライマックスであるところの第十四番の地下牢の中でのフロレスタン、レオノーレ、ロッコ、ピツァロの間の四重唱で、ここで、ピツァロがはじめ、「フロレスタンに死ぬ前に誰の手にかかって殺されるのか知らせてやろう」というあたりの、あの長い、だんだんと強くなってゆくクレッシェンド(それは、からはじまり、一三小節で最初のが来、それからまた五小節してsempre pi� fとなって、六小節の、のクライマックスに達するのだが)。また逆に、この音楽の最終場面での、解放の歓喜を、心ゆくまで歌いあげる情景での(同じくスコアの六二七ページ)ソステヌート・アッサイ、"O Gott! O Gott! Welch ein Augenblick!"以下のその抑えに抑えたテンポにのった充実には、この作品に全力を傾けつくしたベートーヴェンの音楽のもつ、祭典的な壮麗さの最高の到達の一つに対し、二十世紀の一人の青年指揮者が与えた最上の解答がみられる。
こういったバッハ、ベートーヴェンにくらべると、マゼールのモーツァルトには、私は、まだよくわからないものがある。マゼールには、モーツァルトの寛大な自由、透明な軽やかさ、暖かさ、悲しみ、そういったものが、こだわりなく出せないように思われる。私のきいたものの中では、それでも、『ジュピター交響曲』がよかったように思う。ことに、比較的遅めの、そうして、例によって第三拍にいたるまできっちりとられた拍子にのって規則正しくおかれたアクセントをもったメヌエットと、それに続く、ポリフォニックな終楽章の二つがよい。こういうポリフォニックなスタイルだと、マゼールの棒は、魚の水を得たように、一段と晴れやかさと自然な感じを加える。ことにコーダになってから、ちょっと遅めに提出された主題の美しさは、たとえようがない。これにくらべると、第二楽章は、何というか、ダイナミックの幅を極力せまく抑えた恰好で、フォルテといっても響きが奇妙に薄く、馴染《なじ》みがたい。しかし、ここには、前方、何か遥《はる》か彼方までまっすぐに伸びている道を歩くような想いを与えるものがある。それを開かれた地平と呼ぶべきかどうか、私には即断はできないけれども。