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世界の指揮者50

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: 私は、この『エレクトラ』というオペラ、最初にヨーロッパに行った時、はじめてきいて、文字通り震駭《しんがい》させられた。
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  私は、この『エレクトラ』というオペラ、最初にヨーロッパに行った時、はじめてきいて、文字通り震駭《しんがい》させられた。およそR・シュトラウスのオペラぐらい、日本にいるだけでは見当もつかないものはなかったのだが——状況は、当時(つまり一九五〇年代の初め)から、今にいたるまで、何ほども変わってはいない。『エレクトラ』は日本ではまだ一度も演奏されたことはなく、『アラベラ』も『影のない女』も、要するに『ばらの騎士』と『サロメ』を除いては、R・シュトラウスの楽劇は、日本の舞台にはほとんど何もかかっていないし、それだけにまずヴィーンでこれをきいた時は、本当にびっくりした。そのあと、私はミュンヒェン、ザルツブルク、ベルリンと歩き廻っていた時も、チャンスのある限り、シュトラウスの楽劇は見逃さないようにつとめた。
 で、その中でも『エレクトラ』をきいた時の感想は、いろいろあるのだが、なかでも、エレクトラが兄弟のオレステと対面する個所、これはもう、忘れようとしても忘れることのできない印象を与えられたものである。エレクトラは、その直前、妹のクリゾテミスから、「オレステは死んだ。家中の人が知っている。知らないのは私たちばかり。どうしよう!」と訴えられて、最初は、そんなことはない! それは嘘だ! といいはってはみるものの、否定する根拠は何もない。そのうえ、こうなったからには私たち姉妹二人で力をあわせ、今夜にでも父の仇《あだ》を討とうというが、クリゾテミスには、そんな気はまるでない。おだてすかすが、まったく何の効果もない。広い天地の中に自分と行動をともにするものはたったの一人もいないと知った彼女は、たとえ一人でも父の仇討を敢行しようと決意し、半狂乱の態《てい》でかねて地中に埋めてあった斧《おの》を掘り出しはじめる。
 その間は音は、管弦楽の間を細かい音型となってかけまわる。ここのショルティ盤の演奏はものすごい迫力である。
 そのうち気がついてみると、彼女の前に見知らぬ男が立っている。「お前は何をしている。邪魔だから、あっちに行ってくれ」というと、「私は約束があって、人を待っているのだ」という答え。
 そうこうしているうち、ついに、その男が、最愛の兄弟、今日という今日まで待ちに待ったオレステだとわかる。
"Orest! Orest! Orest! Es r殄rt sich Niemand. O lass deine Augen mich sehn, Traumbild, mir geschenktes Traumbild, sch嗜er als alle Tr隔me. Hehres, unbegreifliches, erhabenes Gesicht, o bleib bei mir!……"(オレステ! 動く人なんか誰もいない。お前の目で私を見てちょうだい。私に贈られた夢の像、どんな夢よりも美しく、けだかく、とらえがたく、崇高な顔! 私のそばにいて!……)
 ここは、まず、どんな聴き手にも感銘を与えるにきまっている個所である。
 しかし、今度、改めてショルティの指揮できいてみると、このエレクトラの喜びの絶叫は、かつてきいたどんな演奏よりも、幅の広い、大きな喜びの流れとなっているのだ。もちろん、くり返すが、歌っているのもほかならぬニルソンである。誰よりも、感情の起伏を、巨大といってもよいくらい、大きく表現する力をもち合わせている歌い手である。
 だが、そのためだけではない。ショルティがまた、ここでは、ほとんどR・シュトラウスに劣らぬ天才的な無遠慮といってもよいくらいの傍若無人ぶりで、変イ長調の音楽を滔々《とうとう》とそうして高らかに、鳴らしに鳴らすのである(スコアの二七二ページ)(譜例5)。
 以下、また、彼女は蜒々と歌いに歌いまくる。オレステとの対話になっても、彼女の感情の持続は一向に変わらず、結局、母親のクリュテムネストラを殺すためにオレステが家の中に姿を消すまでの間——その間、実に二十六ページ——練習用記号で一四九のaから一八〇のaにいたる間、歌い続けるのである。
 読者は気がついたかもしれないが、私が今引用した楽譜のオーケストラに出ている音型は、さっき、エレクトラの登場の折、オーケストラの間奏があった時の、その旋律に由来する音型で、リズムのうえでは、その前半とまったく同じだ(四分音符と三連符の八分音符との交替で出来ている)。これは、ヴァーグナー流の示導動機《ライトモテイーフ》の手法でいうと、〈アガメムノンの子どもたち〉の動機に当たると、解説されるのが普通である。
 私は、さっき、R・シュトラウスの天才的無遠慮といった。その意味は、あれほど破格な不協和音にみち、調性の限界を踏み越すまでの高度に無調に近い音楽をかいている最中でも、必要とみればこうして遠慮会釈もなく、変イ長調の甘美にして沸騰的な陶酔の歌を蜒々と書く、本能と計算力の離《わか》ちがたくとけ合ったところに生まれた自信というか、度胸というかを指すのだ。
 だが、またショルティの度胸も、それにいささかも劣らないのである。
 まあ、きいてみるがよい。ここを先途と、ニルソンは歌い、ショルティはオーケストラを鳴らす。しかも、その間、両者ともにどなりっ放し、鳴らしっ放しというのではない。いや、正反対である。その中で、彼らは秘術をつくして、変化にとんだ音楽をやる。それはまさにシュトラウスの音楽の醍醐味《だいごみ》であり、天下の壮観である。
 あと、私はもう具体的に例をあげて書くまでもないだろう。くり返すが、このショルティ指揮ニルソンの演じるところの『エレクトラ』はレコードできける劇音楽の一つの記念碑的な成果である。
 
 だが、これはこれとして、シュトラウスは、あすこで、曲全体の眼目ともいうべき個所で、どうして突然、変イ長調などという調子の《歌》をかいてしまったのだろうか? あれはたしかにすばらしい効果を生み、近代オペラの名作たる所以《ゆえん》の少なからぬ部分が、あすこの書き方にあるのは事実だが、様式の破綻《はたん》であり、音楽的思考の一貫性という点からいっても、自家撞着《どうちやく》ではなかろうか? そういうふうだから、『サロメ』『エレクトラ』と書きすすんできたこの天才は、このあと急転回して『ばらの騎士』という新古典主義、いや華麗極まりない折衷主義に転進してしまったのではなかろうか? あるいは『ばらの騎士』こそシュトラウスの頂点と考える人にとっては、『エレクトラ』は何かうさん臭いものがあるということになるかもしれないではないか。
 そういうことを考えてみる人には、私は、改めて、カール・ベームの指揮による『エレクトラ』のレコードを一聴されることをおすすめする。ここでは、まず、ジャン・マデイラの真実の苦悩にみち、しかも気品を失わないクリュテムネストラ(彼女の登場では、ショルティ盤で叫びでしかないものが、ベーム盤では歌になっている。それも微妙なニュアンスにみちた様式化された歌であるのに、はじめてきくものはびっくりするだろう)と、インゲ・ボルクの知性においてずばぬけてすぐれたエレクトラ〈"Elektra, du bist klug"(エレクトラ、おまえは賢い)〉との息づまるような対決がある。そうして不協和音も、ここではさほど異常な出来事としてきこえてこない。また、例のエレクトラとオレステの出会いの場にも、ショルティの場合ほどの燦《きら》めくばかりの喜びの氾濫《はんらん》はなく、むしろやや色褪《あ》せた変イ長調の流れがあるにすぎない。しかし、それだけにまた、両者の間のくいちがい、様式の破綻という感じも、あまり与えずにすんでいる。
 これを、どうとるか。くいたりないととるか。あるいはベームの音楽家としての叡智《えいち》の高さととるか。この両者択一は、最初にのべた『エロイカ』の演奏の場合と、本質的には、同じものに根ざしているのである。
 ただ、それを、この国では、何も考えずにベームの名のみ高く、ショルティといえば、過小評価されている気味がなかろうか?
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