そうして、その間、重点が帝室や貴族を中心としたヴィーンの社交界からしだいに市民社会に移動してゆく過程の中で、古いものから残され、新しいものの中に、ごく自然に伝えられ、保存され、そこでまた新しい花を咲かせていったのは、何と何であったか? これを詳細に正確に見とどけることは、私たちにはとてもできない話ではあるけれども、少なくともクラウスという音楽家が、その出生から、その音楽家としての出発(彼はヴィーン少年合唱団〔当時の帝室少年合唱隊〕で最初の教育をうけた音楽家だった)、成長、成熟といった軌跡の中で、二十世紀前半のヴィーン市民の音楽生活と深いところで接触し、のちにはそれを形成する有力な力の一つになったこと、これもまた、たしかな話であろう。
私たちが、「ヴィーンでは音楽が市民の間に……」という時、あるいは「ヴィーンの演奏会では……」という時、そういう時の《ヴィーンの音楽》というイメージが今日のような形になっているについては、クラウスのような指揮者が、大きく一役を買っていると見なければならない。
現に、彼は、大戦直後、フィルハーモニーを率いて、大《おお》晦日《みそか》と元旦にかけての間に《ニュー・イヤー・コンサート》を開いて、ワルツを中心に《ヴィーンの音楽》を演奏したものだが、これは単に興行的に成功したというだけでなく、敗戦に打ちひしがれたヴィーンの市民たちに大変な人気を呼んだ。
クラウスのそういう面は、ヨーハン・シュトラウスたちの演奏を通じて、日本の——というより、世界中の音楽ファンの耳にすっかり馴染《なじ》みとなっている。それについては、私が書くまでもないだろう。
私は、ただ、クラウスでは、一つだけひどく気に入らないことがある。それは彼が、フルトヴェングラーがナチと衝突して、ベルリン・フィルハーモニーやオペラから離れた時、その後任に任命されるとさっそくベルリンにのりこんだ件である。くわしい事情がわかれば、私の考えも変わるかもしれないが、あれは、本当に、いやな話である。