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世界の指揮者64

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: フルトヴェングラーの指揮姿にしかも彼が死んだ一九五四年という年にはじめてヨーロッパに旅行したくせに何回か接することがで
(单词翻译:双击或拖选)
  フルトヴェングラーの指揮姿に——しかも彼が死んだ一九五四年という年にはじめてヨーロッパに旅行したくせに——何回か接することができたというのは、私がいまだに自分の幸福の、それもいちばん混じりけのないよろこびに数えているものの一つである。
 私は、まずその年の五月パリで、ベルリン・フィルハーモニーを率いてきた時のフルトヴェングラーを二日間続けざまにきいた。それから七月から八月にかけて、ザルツブルクでオペラ『ドン・ジョヴァンニ』と『魔弾の射手《フライシユツツ》』を指揮する彼をきき——この時のオーケストラはヴィーンの国立オペラ、つまりはヴィーン・フィルハーモニーの連中だったはずである——、その足で今度はバイロイトにまわって、あすこの祝典劇場でベートーヴェンの『第九交響曲』をきいた。この時と同じメンバーによる一九五一年度の演奏がレコードになって残っている。
 このほかにも、私はヴィーンとベルリンで、それぞれ、もう一、二日早く行っていれば、彼をきくチャンスに恵まれたはずだった。しかし、それがきけなかったことを別に惜しいと思っているわけではない。私は、自分が何回か、それを以上のいろいろな土地で、いろいろな重要なプログラムで、フルトヴェングラーをきくことができたということで満足しているのである。
 まあ、強いていえば、バイロイトでヴァーグナーの楽劇を一つ、『トリスタン』か『ヴァルキューレ』がきけたら、もっとうれしかろうと考えることもできなくはない。だが、正直のところ、私はパリで『トリスタン』の〈前奏曲〉と〈愛の死〉をきいていて、その時はすごく感激したものだった。たとえ、あの楽劇全体がきけたとしても、果たして、あれ以上の何が感じられたかどうか。
 フルトヴェングラーは、この曲を、パリでのベルリン・フィルの演奏会のアンコールとしてやったのだったが、それは本当にすばらしかった。当時、私は旅先から東京の雑誌に旅行記を書きおくっていて、それがのちに『音楽紀行』という題で本になった。今、その本を開いてみると、こう書いてある。
「けれども、僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く」。
 妙な文章であるが、あの時、私の見たものについては、ああたしかにそうだったとはっきり思い出すことはできる。そう、私は演奏に感激すると同時に、ベルリン・フィルの楽員が、ことに指揮者の左右で前のほうに坐っていた弦楽器のメンバーが身体を前後に波打たせて演奏していたのにも、注目していたのだった。それはまさに、自分と自分のやっている音楽とが一体になっている境地を告げているように見えたものである。「これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している」という文法的にみても誤りでしかない文章は、そのことを述べたいばかりに書いたのだった。そのつぎの文章も、いけない。話にならない。だが、もう一つ次の文章は、これも私の見たものを伝えたものである。
「指揮者の左手が高くあげられる時といえば、奥に坐ったホルンとかトロンボーン、トランペット、ないしは打楽器に入りの合図を伝えるためであるのが普通なわけである。そうして、指揮者のこの合図に応えて、荘重なコラール風のファンファーレが開始されるとか、金管で力強い主題が出現するとか、私たちの見なれているのは、まず、そういう光景である。ところが、フルトヴェングラーだと、そういうことももちろんあったにちがいないのだが、私の印象に今でも鮮かなのは、『トリスタン』の前奏曲で、彼の右手が拍子をとるのをやめて腰のあたりに低くおかれてしまっている一方で、左手が高々とまるで炬火《たいまつ》でもかざすようにあげられる。それにつれて、一〇〇人を優に越すオーケストラのトゥッティが最高潮に達し、興奮の極に上りつめる。しかもそれが、ただの巨大な響きになるというのでなくて、“すすり泣く”のである。あるいは歓喜と苦悩の合一の中で、笑いながら泣くといってもよいのかもしれない。そうしてその響きに包まれる時、聴衆もまた、この永遠の恋愛の劇である『トリスタン』のまっただ中にいることになるのだ」。
 私は、このあと、「ベルリン・フィルハーモニーのフォルテとピアノとの対比のすばらしい美しさ、ことにはピアニッシモの絶妙さ」についてふれていたけれども、こんなことがありうるというのも、私には、ショッキングだった。
『トリスタン』のスコアは、なまじっか抜萃《ばつすい》して引用してみてもむだだからやめておくが、〈前奏曲〉のあのきこえるかきこえないかの微妙な開始から少しいって、しだいに高潮(アニマンドに入って)、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、それからヴィオラと弦楽器がかけ合いで、長い音階をひきずりながら、主題の楽想をひくところがある。これが、要するに前奏曲のクライマックスをつくっているわけだが、そういう時に、フルトヴェングラーは突然、右手で拍子をとることをやめてしまうのである。
 しかも、この個所では、つぎからつぎとクレッシェンドを重ねながら、クライマックスにのぼりつめるその間にも音楽家は、ただフォルテばかりでなく、ほかのどんなところでもぶつかったことのないようなピアノを忍びこませてくる。しかも、そのピアノがまた、実によく聞こえるのである。ごく短い間だが心にしみ込むように、きこえてくるのである。
 この〈前奏曲〉と〈愛の死〉の演奏は、幾通りかのレコードがあるはずだから、きいたことのない人のほうが少ないのだろうが、もし、これからレコードを買うという人にきかれたら、私は躊躇《ちゆうちよ》なく、『トリスタン』の全曲盤をすすめるだろう。もちろん、そのほうがたくさん金がかかるわけだが、しかしどうせ一生の間にはレコードを何十枚か、ことによったらそれよりもっと多く買うだろうと見当がついている人だったら、やはり全曲盤を買うべきだろう。その中には、ここではとうてい書きつくせないほどのすばらしい音楽が充満しているのだから。
 私は、つい先ほど、自分がフルトヴェングラーの指揮で『トリスタン』の全曲をきいたのでなく、〈前奏曲〉と〈愛の死〉しかきいてないことを不満に思わないと書いたのは、実演でのことである。だから、もし、一部を実演できくか、それとも全曲をレコードで買うか、そういう二者択一を迫られたのだったら、もちろん、私は、たとえ一部なりと実演できくほうを選んだろう。実演のほうが、私には、わかりやすいからである。
 そうして『トリスタン』という曲は、今日の耳できいてみても、依然として、大曲であり、難曲であることは少しも変わっていない。
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