いつぞや、外国にいたおり、ラジオをきいていたところ、たまたま、いろいろな指揮者と管弦楽団が演奏したレコードで、この曲をきかせるというプログラムにぶつかった。ヴァルターだとかトスカニーニだとか、カラヤン、フルトヴェングラー等々の名指揮者がつぎつぎと登場してきて、なつかしくもあれば楽しくもあったが、その中で、演奏の水際立ってうまいのは、ジョージ・セルの指揮、クリーヴランド管弦楽団の演奏によるものだった。これはもう数ある名門オーケストラの演奏にくらべても、一段とまた高水準の出来ばえであった。この原稿を書くに当たって、それを思い出して手もとにレコードのあるものをもう一度ききくらべてみた。
アンダンテの主題が、オーボエとファゴットで提示され、それを低弦とコントラファゴットが支え、そこにさらにホルンが加わる。この主題の前半は五小節プラス五小節という変則的な構造なのだが、ブラームスはホルンを二小節やらしては、一小節休むという形で、その五小節という変形をさらにおもしろくいろどっているのである。そういう感じが、セルの棒だと実によく出てくる。そのうえに、それこそ一分の隙もない完璧《かんぺき》な合奏のおかげで、最初からひきしまった実によい響きがする。誇張していえば、この最初の五小節をきいただけでも、耳が洗いきよめられたような気がするほどの名演である。あとも、ずっと、その調子。
これほど、欠陥のない演奏は、ほかになかった。
これにくらべると、ヴァルターのそれは柔らかくよく歌う。それに、かつて私が指摘したようにヴァルターはほかのどんな人よりもバスを強調する——というか、よく響かせる癖をもっていたので、それが、この曲ではとても主要な働きをする。というのも、この曲の最初の変奏は、高いほうの弦、つまり第一、第二ヴァイオリンと低い弦、つまりチェロ(それにファゴットが重なる)とがカノンになっているのだが、それは、必ずしも、どんな時も、ちゃんとわかるようにひかれているとは限らない。だが、ヴァルターだとそれがよくわかる。それから、これはもう誰も知っていることだが、この曲の最後は、同じ作曲家の『第四交響曲』の終楽章と同じように、パッサカリアというか、低音部に出た主題が何回も反復され、そのうえに新しいふしが重ねられるという作り方がなされている。その主題たるべき低音の動きは、ヴァルターだと、それまでも、いつもよく出ていたので——しかも、けっして耳ざわりになるような押しつけがましさをもってではない!——、ごく自然に、パッサカリアとして聴き手にうけとめられるのである。
ところでこの終曲の急所は、パッサカリアであるのと、もう一つは、終わりに当たって、その低音主題に、最初の変奏主題がのっかって出現してくる、これを、できるだけ自然に、しかもまた、堂々たるコラールの行進というか、いわば勝利の凱旋《がいせん》としての威容をもって再登場させて、全曲を結ぶという形にする、この力強さと自然さとそれが一つになっていなければならないのだろう。
ところが、どういうわけか、私には、大家といわれるほどの人たちの指揮できいてみても、いつも、それがうまくいっているとはきこえないのである。ときどき、もしかしたら、これは作曲に問題があるのかしらと思ったりもしてしまうくらいである。
だが、セル〓クリーヴランド管弦楽団の組合わせでは、そういうところもすごくよくいっている。要するに、純粋に音楽的にいったら、これが最高の出来ばえのレコードである。
ところで、フルトヴェングラーのレコードに話をもどすと——私の知っているのは、ベルリン・フィルとやった戦時中の盤であるが——、とてもセルたちのような合奏の完璧度に達していない。それに、ヴァルター盤についてふれたように、第一変奏のカノンがよくわかるというのでもない。これはスタジオ録音でないのだからその点でのハンディキャップということも勘定に入れなければならないのだろうが、ここだけでなく、第三変奏の後半のヴィオラやチェロで挿入《そうにゆう》されてくる十六分音符の新しい音型も、この盤では、どうもはっきり出てこないのも、おもしろくない。「もっとしっかり肉声をきかせるようにひいてくれ」と注文を出したくなるところである。
第三には、第四変奏のアンダンテ・コン・モートがやたらとおそく、まるでアダージョか何かのようにきこえ、それとは逆につぎの変奏の八分の六拍子のヴィヴァーチェが、これはまたずいぶん速いのにびっくりさせられる。ただしこれは、私は実は欠点と思っているわけではない。むしろ、フルトヴェングラーをききなれた人ならば、みんな知っているところの、彼のテンポのとり方の癖として、なつかしく思うのである。それにまた、このおそすぎるアンダンテ・コン・モートとびっくりするほど速いヴィヴァーチェとで一対をつくることは、ちょうど、力強いフォルテとかすかなピアノの間の強烈な対照同様、フルトヴェングラーの音楽の最大の特徴の一つであって、それをぬきにしては彼は考えられないのである。
そうして、〈第四〉に、例の終曲のパッサカリアが、少なくともこの盤の演奏では、もうひとつうまくいっていない。主題の再現が唐突というのでもないが、何か堂々と、まさに出現すべくして出現してきたという感銘を与えるところまでいっていないうえに、せっかく出てきたのに、妙に尻切れとんぼとなって終わってしまう。
要するに、最後の、そうして最高のクライマックスであるべきはずのものが、不発に終わっているのである。
だが、以上のすべてを補ってもあまりあるようなものは、先の〈第四〉〈第五〉の一対についで、第六変奏のヴィヴァーチェと対をなす第七変奏のグラツィオーソの演奏である。これはシチリアーノのリズムによる八分の六拍子の音楽なのだが、その後半に入って間もなく、第一、第二ヴァイオリンがオクターヴの間隔をおいたユニゾンで、変ロ音(b)からはじまって、実に二オクターヴ上昇してゆき、それから一つ上のハ音()に上ってから、また順次おりてくるという個所が出てくる。何のことはない、ごく簡単な対旋律にすぎない(譜例1)。
だが、この彼の演奏を一度でもきいて、しかも、それを忘れることのできる人がいたとすれば、その人はもう、よほど、どうかしているといわなければならないだろう。ただの音階の上昇と下降でありながら、こんなに燃えるようなものをもって上下する動きはあるものではない。しかもそれがあくまでもグラツィオーソのシチリアーノの枠で前後左右をとりかこまれた中で生起するのである。きらきらと輝きながら燃え上がり、そうして力つきておりてくる一条の音の光! この中には、ロマンティック音楽のすべてがある。しかも、これはあくまでもブラームスなのだ。
私は、この項の最初で、フルトヴェングラーの指揮する『トリスタン』の前奏曲での音階についてふれた(譜例2)。
これも同じ音階であり、同じ八分の六拍子であるが、音楽はまるでちがう。はるかに神経質であり、同時にはるかに洗練されている。ヴァーグナーとブラームスの違いである。
だが、また、ここには、同じものが底流している。憧れの芸術としての音楽の本質を、これ以上ない形で、直截に体現したものとして。
これが、ほかのすべての点で、どんな大指揮者たちのそれを凌駕《りようが》しているといってもよいほどのすばらしい演奏をきかせているジョージ・セルにないものである。なぜか、私は知らない。
そうして、これが、ほかのどんな大指揮者の名演をきいたあとでも、ただ、フルトヴェングラーの指揮でだけ経験できたものとして残るところの「何ものか」である。
私がさっきから「極度に官能的で、しかも高度に精神的なものを一つにあわせもったフルトヴェングラーの音楽」という言い方で、いおうとしているものの典型がここにある。