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世界の指揮者67

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: フルトヴェングラーの『トリスタン』はレコード化されたのに、『ドン・ジョヴァンニ』がその機会をもたずに終わってしまったら
(单词翻译:双击或拖选)
  フルトヴェングラーの『トリスタン』はレコード化されたのに、『ドン・ジョヴァンニ』がその機会をもたずに終わってしまったらしいのは残念なことである。ただし、これは映画にとってあったので、日本でも、何度かくり返し上映された。私は見ていないが……。
 その映画は、たしか一九五四年のザルツブルクの音楽祭の時のを、そのままとったものだときいた。それならば、ちょうど私が行った時のものに相違ない。シュヴァルツコプフ、グリュンマーの両ソプラノに、チェザーレ・シエピのタイトル・ロール、レポレロはオット・エーデルマンといった顔ぶれで、今は押しも押されもしないレポレロ役であるワルター・ベリーはあのころはまだマゼットを歌っていたものだ。それにオッタヴィオがアントン・デルモータ、ツェルリーナがエルナ・ベルガーといったところ。『ドン・ジョヴァンニ』は、おそらく、フルトヴェングラーが指揮するモーツァルトのオペラの最上のものだったろう。『フィガロ』や『コジ・ファン・トゥッテ』をやってもすばらしかったに相違ないが、しかし、今日の好みからすれば少しロマンティックすぎはしなかったろうか。では『魔笛』はどうか? 私には、これもどこかでくいちがったろうという気がする。フルトヴェングラーにはモーツァルトのあの金色のメルヘンの無垢《むく》といったものがない。彼は、やはり『トリスタン』の国の住民だ。
 それだけに『ドン・ジョヴァンニ』は、彼に最も向いていた。どだい、E・T・A・ホフマンをはじめ、十九世紀初頭のロマン主義者たちが、モーツァルトを「発見した」のはデモーニッシュな魅惑にみちた『ドン・ジョヴァンニ』の天才的作曲家としてだったのだから。キルケゴールにしても、そうである。
 だが、私は告白しなければならない。せっかくフルトヴェングラーのその『ドン・ジョヴァンニ』にふれるという千載一遇の機会を与えられながら、そうしてまた、私は感激したのもはっきり覚えているのだが、さて、その演奏の具体的なこととなると、どうもはっきり想い出せないのである。当時はまだフェストシュピールハウスが出来る前で、舞台の背後が岩壁でできていたフェルゼンライトシューレの大ホールで上演されたわけだが、その岩壁を巧みにつかって、大詰めの場で、真黒な闇の中を、上段から中段にいたるまで、一面に、修道僧の黒衣に身をかためた合唱団が、手に手に蝋燭《ろうそく》をもって動いていた姿が、いまだに、目に浮かぶ。そのほか、局部的には、あれこれを思い出しはする。ときに、エルヴィーラの部屋の窓の下で、ドン・ジョヴァンニがセレナードを歌ったあと、一息してから、ヴェールを冠ったエルヴィーラが、あたりをうかがいながらそっと出て来た時の、その妖《あや》しいまでのなまめかしく、悩まし気な風情。
 だが、音楽では、序曲が、何だか、とてもよかったような気がするのだが、それが、はっきり音になって記憶に蘇《よみがえ》ってこないのである。口惜しい限りである。こんなところ、私はまだ、だめである。特にオペラの聴き手としては落第だ。
 ただし、同じところで接したヴェーバーの『魔弾の射手』のほうなら、序曲や、そのあとのいろいろなシーンの音楽を、まだよく覚えている。ことに、まだ昨日きいたみたいにはっきり想い出すのは、例の〈花環《はなわ》の歌〉と、それからグリュンマーの歌ったアガーテのあの長大なレチタティーヴォとアリアである。一体に終始おそめのテンポがとられていた中でも、前者の〈花環の歌〉は、単におそいだけでなく、全体としてピアノから、ピアニッシモの間ぐらいの声しか出させない、それ自体で、すでに、もう想い出のようなヴェールのかかった夢想的な演奏だった。あんなにきれいな〈花環の歌〉は以来二度ときいたことがない。それに〈狩人《かりゆうど》の合唱〉だとか、この〈花環の歌〉だとか、ひいては『魔弾の射手』の全体が、ドイツ人にとっては、子供のときから耳にたこの出来るほど、きかされ、唱《うた》わされてきたものが多いのだろうから、今さら、それを舞台の上でやられても、よほどセンチメンタルな人間でない限り、やりきれない思いがするものらしい。これは日本などで、『魔弾の射手』などというと、ただ本でだけ読んできたために、かえって好奇心と憧れの対象となり、ドイツ人は本当にこういうものが好きなのだろうと想像するのと、ちょうど逆の事情がはたらく。私たちの身近かの例でいえば、外国人が日本人をみると、なつかしがるだろうと考えて、富士山や何かのことを話しかけるようなものである。フジヤマ何とかの話をされると、日本人はむしろ閉口してしまう。
 それに、私がこれをザルツブルクできいたのは、戦後まだ十年とは経っていなかったころである。アメリカを筆頭とする連合国側が、ドイツ人の戦争責任問題でドイツ・ロマン主義とか表現主義の思潮が、そもそも、その禍根だと論じていた日から、まだいくらもたっていない時だったのである。
 戦争責任といえば、このころのフルトヴェングラー自身にとっても、戦犯として一時活動を停止させられ、スイスで空《むな》しく日を送っていた日も、まだそう遠い過去のことではなかったのである。このことについては、最近の日本では、フルトヴェングラーについてというと、誰も、彼も、そのことに一筆ふれるといった傾向がみえているから、私は、むしろ、ここではふれない。私の考えは、すでに、いくつか書いてきたし(『吉田秀和全集』第五巻所収の「フルトヴェングラーのケース」参照)、なかでも、丸山真男氏と対談した時に、ほとんどいいつくした(これはみすず書房刊『現代の逆説』に入っている)。
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