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世界の指揮者71

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: 同じようなことが、ブラームスの『第四交響曲』のレコードについてもいえる。同じようなことというのは、ここで指揮している人
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  同じようなことが、ブラームスの『第四交響曲』のレコードについてもいえる。同じようなことというのは、ここで指揮している人がほとんど大家と呼ばれてもよいような、りっぱな音楽家であるというたしかな手ごたえである。
 こういう言い方が、抽象的である——というのは、私も認める。だから、私も実はさっきから、もっとそれをはっきり具体的にいいあらわす手段があるにちがいないのにと、少々苛立《いらだ》っているのである。だが、うまくつかめない。ここには、言葉にならない何かがあり、それが私には、かなり重要なことのように思えるのだ。
 しかし、こうは、いってもよかろう。つまり、ベートーヴェンの交響曲といい、ブラームスのそれといい、このレコードできいていると、気持のよいのは、音がきりっとひきしまって、まったくむだがないという印象を与えられるのである。しかも、前に書いたように、やたらと各パートの分離がよいにもかかわらず、そうなのである。というのも、これまたさっき書いたように、かつてミュンシュとボストン交響楽団できいた時は、私は「こんな余計なことをしてくれなくてもよいのに、これは音楽的な演奏というのとは別な品質にすぎない」と考えたのだったからである。そういう——余計なことをするという感じがここではしないのである。
 なぜだろうか?
 この音の分離の良さが、かえって響きの筋骨性的な強靱《きようじん》さを際立たせているからかもしれない。
 だが、ブラームスの交響曲の演奏では、ベートーヴェンではあまり気がつかなかった別の要素が加わってくる。それはテンポの動きがかなり著しい点である。たとえば、第一楽章の提示部の終わりの楽想(フィルハーモニアのスコアで第九一小節目、第一、第二のヴァイオリンがオクターヴで重なって、下行してくる旋律)(譜例2)。
 それまでのテンポは、ここにきてぐっとおとされ、まるで大きな溜息《ためいき》のように強調されながら、旋律がはるか高いところからおりてくる。ここできくものは思わずハッと息をつめて耳をすまさずにいられなくなる。それほど、この溜息は美しく、そうして強く大きな身振りで下行する。これをきいて、私は思わず、メンゲルベルクそのほか、往年の大指揮者で、音楽の身振りに大きなうねりをもっていた人たちのことを思い出した。
 ジュリーニは、ベートーヴェンでは一切つつしんでいたが、ブラームスだからこそ、きっと、こういう指揮をしたのだろう。たしかにブラームスの音楽では、この種の詠嘆の声が、きき出そうとしさえすれば、いくらでもきこえてくる。そればかりでなく、この先のほう、展開部が終わりかけて、再現部に移ってゆく個所で、音楽は歩幅をゆっくりゆるめてくるのだが——そうして、そうやることによって、この交響曲の全体を支配している3度の連続下行という最も重要な思想の意味がこれ以上やりようのないほどはっきりしてくるのだが(スコアで第二二七小節から、特にフィルハーモニアのポケット・スコアでレの印のついた第二四六小節から再現のはじまる第二五八小節にかけて)——ジュリーニのやり方では、テンポをゆるめることは同時に、たっぷりとまるでイタリア・オペラのテナーのアリアみたいに、歌い上げることでもあるのであって、それが、私などには、はじめてきく時、軽い違和感を抱かせ、「何かがおかしい」という感じを与えもするのである。
 これはまた、第二楽章の第二主題についてもいえることで、これなどは、もう簡単明瞭にチェロの歌であり、歌以外の何ものでもないものとして、たっぷりヴィヴラートをかけ、精一杯の表情でゆっくり歌われる。とともに、この「歌う」ということが、ものすごい迫力にも通じるのであって、それは有名なシャコンヌの形をとった終楽章の中にも出てくる。
 私のいうのはホ長調に変わってホルンとトロンボーン、それにファゴットも加わって、『タンホイザー』の巡礼の合唱みたいな変奏の個所のことである。ここでは、ヴィオラとチェロとがドルチェでアルペッジョの合いの手を入れるのだが、その時のディクレッシェンドが、雄勁《ゆうけい》とでもいうか、金管のエスプレッシーヴォに対し、実によくさびのきいた音調をきかせるのである。これなどは、別に、洒落《しやれ》た効果を狙ったとか何とかいうのではまったくないのだろうが、やはり、どこか異様な、ちょっと忘れられないような感じを、私たちの耳に残す。
 私は、何もジュリーニがイタリア人だから、よく歌わすのだというような紋切り型をいっているつもりはない。いやもし、そんなことからいうならば、ジュリーニのブラームスの歌わせ方は、むしろ少し疎外感があるのだから、むしろ歌わせ方が下手だといっても、よいくらいだろう。
 そうではなくて、彼には、際立って独特な歌わせ方があり、それがきくものを驚かせたり、納得させたりするというだけのことなのである。
 そういうなかで、私が、今度ジュリーニの何枚かのレコードをきいているうち、最もびっくりしたのは、マーラーの『第一交響曲』をきいた時で、この交響曲の第三楽章の出だしで、ニ短調の旋律がコントラバスからはじまって、ファゴット、チェロ、バス・チューバ、クラリネット、ヴィオラ、それからホルンとしだいにカノンで重ねられてゆくのをきいているうち、「ああ、そうだ。これはベートーヴェンの『第九』のあの〈歓喜によす頌歌《しようか》〉の、最初の器楽の入り、あれのパロディーなのだ。そうしてあちらの歓喜に対し、こちらは葬礼の哀悼の歌なのだ」と気づいた時である。調性もニ長調に対するニ短調。だから、マーラーは、これをfeierlich und gemessenという表情記号をつけ、そのうえに楽譜にわざわざ「ここの各声部の入りは、どれもみなlangsamと指定された個所にいたるまでは、でクレッシェンドをつけないまったく均等の足どりで前進するように」という、注をつけたのだ。——このことは、オイレンブルク版(F・レートリヒの校訂のある新版のほう)のポケット・スコア、第七八ページにある。こういうことはどんな演奏をきいても気がつくはずといえば、それまでの話だが、私としては、これまで いろいろな人の演奏できいたのに、今度ジュリーニのレコードできいて、はじめてはっきりしたという事実は、どうにも取りかえようがない(譜例3)。
 もちろんこの個所は『第九』にくらべれば、技法としてはずっとプリミティヴな外形をとってはいるけれども。
 こうして、そのあとの何か軽音楽というか、ダンス音楽みたいな品のない旋律の意味も、以上に準じて、わかってくる。そうして、中間部の、マーラーのわざわざつけ加えた注を引用すれば「Sehr einfach und schlicht wie eine Volksweise」(民謡か何かみたいにごく単純に飾り気なく)歌われるべき、あのト長調のふし(譜例4)。
 ここでも、私たちはマーラーの「単純に飾り気なしに」というのが、いわゆるザッハリヒな演奏スタイルとは何の関係もないこと。いやむしろ、その逆であるべきことを知る。それは引用した第二小節の終わりの拍のbからgに4度上る(この4度が、この交響曲では、ちょうどブラームスの『第四交響曲』での3度と同様すべてを生みだす基本的な音程なのだが)、その時のグリッサンドという指定にも明らかだし、そのほか、みる人がみれば、これはすぐわかる事実なのだ。そうして、ジュリーニはここから実に「飾り気なく」しかもひどく痛切で身につまされる嘆きのふしをひき出してくる。
 こういう時である、むしろ、私が彼にイタリアを感じるのは。ドイツ人の指揮者だったら、とてもこれほど「飾り気のない」むき出しの直截《ちよくせつ》さと、単刀直入の肉感性をもって、このふしをひかせることは躊躇《ちゆうちよ》するだろうに。すでにあの心優しく、高雅なヴァルターがそうだった。
 こういうジュリーニが、ベルリン・フィルハーモニーを相手に、同じ作曲家の手になるとはいえ、まったく別世界といってもよいほどの『第九交響曲』でどんな音楽をつくりあげたことだろう? 私は、とても知りたい。
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