且(かつ)父の為義を弑(しい)せし報(むく)ひ窮(せま)りて、家(いへ)の子(こ)に謀(はか)られしは、天神(あまつがみ)の祟(たた)りを蒙(かうむ)りしものよ。
又、少納言信西(しんぜい)は、常に己(おのれ)を博士(はかせ)ぶりて、人を拒(こば)む心の直(なほ)からぬ、これをさそうて信頼(のぶより)・義(よし)朝(とも)が讐(あた)となせしかば、終(つひ)に家を捨てて宇治山(うぢやま)の坑(あな)に竄(かく)れしを、はた探(さが)し獲(え)られて六条河原に梟首(かけ)らる。
これ経をかへせし諛(おも)言(ねり)の罪を治(をさ)めしなり。
それがあまり応(おう)保(ほう)の夏(なつ)は美(び)福門院(ふくもんゐん)が命(いのち)を窮(せま)り、長寛(ちやうくわん)の春は忠道(ただみち)を祟(たた)りて、朕(われ)も其の秋世をさりしかど、猶(なほ)嗔火(しんくわ)熾(さかん)にして尽(つき)ざるままに、終(つひ)に大魔王(だいまおう)となりて、三百余類(よるい)の巨魁(かみ)となる。
朕(わが)けんぞくのなすところ、人の福(さひはひ)を見ては転(うつ)して禍(わざはひ)となし、世の治(をさま)るを見ては乱(みだれ)を発(おこ)さしむ。
只清盛が人果(にんくわ)大にして、親族(うから)氏族(やから)ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる国政(まつりごと)を執行(とりおこな)ふといへども、重森(しげもり)忠義をもて輔(たす)くる故いまだ期(とき)いたらず。
汝見よ。平氏もまた久しからず。
現代語訳
この報復として、(自分の心を)虎や狼のような(残忍な)心に変えて義朝を、信頼の陰謀に仲間入りさせたので、国津(くにつ)神(がみ)に背いた罪により、さほど武勇にも優れていない清盛に追い討たれたのである。
その上、子として父の為義を殺した報いによって、譜代の家臣にだまし討ちに討たれたのは、天津(あまつ)神(がみ)の祟りを受けたのである。
また、少納言信西(しんぜい)は、常に学者ぶり、人を容(い)れないねじれ心であった。その心を誘い募(つの)らせて、信頼・義朝の仇敵にしてやったから、彼はついに家を出て宇治山中に穴を掘って隠れたけれど、結局探し出されて六条(ろくじょう)河原(がわら)に首をさらしたのだ。
これは写経を突き返した諛(へつらい)言(ごと)の罪を裁いたのである。
その余勢をかって応(おう)保(ほう)元年の夏には美福門院の命を縮め、長寛二年の春には忠道に祟って殺し、朕(われ)もその年の秋には世を去ったが、死後もなお、憤りの火が盛んに燃えて消えぬままに、ついに大魔王となって三百余類を配下とする首領となったのである。
朕(わ)が眷属(けんぞく)のなすところは、人の幸福(さいわい)を見てはこれを災厄(わざわい)に転じ、世の太平を見ては、そこに戦乱を起こさせることだ。
ただ清盛だけは人果に恵まれており、親族一族のすべてが高位高官に連なり、自分勝手な国政を執り行っているが、その子重盛が忠義を持って補佐しているので、未(いま)だ彼らを破滅させる時が来ないのだ。
汝、見ているがよい。平氏の運も久しくないぞ。