西行いふ。「君、かくまで魔界(まかい)の悪行(あくごふ)につながれて、仏土(ぶつど)に億万里を隔(へだ)て給へばふたたびいはじ」とて、只黙してむかひ居たりける。
時に峰(みね)谷(たに)ゆすり動(うご)きて、風、叢(は)林(やし)を僵(たふ)すがごとく、沙(まさ)石(ご)を空(そら)に巻(まき)上(あぐ)る。
見るみる一段の隠(いん)火(くわ)君が膝の下より燃(もえ)上(あが)りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。
光(ひかり)の中につらつら御気色(みけしき)を見たてまつるに、朱(あけ)をそそぎたる竜顔(みおもて)に、荊(おどろ)の髪(かみ)、膝(ひざ)にかかるまで乱れ、白眼(しろまなこ)を吊(つり)あげ、熱(あつ)き嘘(いき)をくるしげにつがせ給ふ。御衣(ぎょい)は柿(かき)色(いろ)のいたうすすびたるに、手足の爪(つめ)は獣(けもの)のごとく生(おひ)のびて、さながら魔王の形(かたち)、あさましくもおそろし。
空(そら)にむかひて、「相模(さがみ)、相模」と呼(よば)せ給ふ。「あ」と答へて、鳶(とび)のごとくの化(け)鳥(てう)翔(かけ)来り、前(まえ)に伏(ふし)て詔(みことのり)をまつ。
現代語訳
そして雅(まさ)仁(ひと)が私につらい目をみせた分は、最後にはきっと報いてやるぞ」と、御声はいっそう恐ろしく聞こえるのであった。
西行は答えた。「君主(おかみ)がこれほど深く魔界の悪縁につながれ、仏の極楽浄土と億万里を隔てておられる以上、もはや何も申し上げられませぬ」。と、後は口もきかずに向い合っていただけである。
その時、峰も谷も揺れ動き、烈風は林を吹き倒さんばかりに吹き、砂や小石を空に巻き上げた。と思うとみるみるうちにひとかたまりの鬼火が新院の膝(ひざ)の下から燃え上がり、山も谷も昼間のように明るくなった。
光の中でよくよく(崇徳院の)ご様子を拝見すると、怒りで真っ赤に染まったお顔に、くしけずらず、ぼうぼうと乱れた髪が膝にかかるほど長くまつわり、(人を睨み付けた)白い目を吊り上げ、熱い吐息を苦しそうについておられる。御衣(ぎょい)は柿色のひどくすすけたのを召され、手足の爪は獣のように長く延びて、さながら魔王そのもののお姿は情けなく又恐ろしい。
空に向って「相模、相模」とお呼びになる。「はっ」と答えて鳶(とび)のような怪しい鳥が飛んで来て、新院の前にひれ伏し、お言葉を待つ。