ほどなくいなのめの明けゆく空に、朝(あさ)鳥(とり)の音(こゑ)おもしろく鳴(なき)わたれば、かさねて金剛(こんがう)経(きょう)一巻(いっくわん)を供養(くやう)したてまつり、山をくだりて庵(いほり)に帰(かへ)り、閑(しづか)に終夜(よもすがら)のことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息(せうそく)、年月のたがひなければ、深く慎(つつし)みて人にもかたり出でず。
其の後、十三年を経(へ)て治承(ぢしやう)三年の秋、平(たひら)の重盛病(しげもりやまひ)に係(かか)りて、世を逝(さり)ぬれば、平(へい)相国(さうこく)入道、君をうらみて鳥羽(とば)の離宮(とつみや)に籠(こめ)たてまつり、かさねて福原(ふくはら)の茅(かや)の宮に困(くるし)めたてまつる。
現代語訳
(崇徳上皇は)この言葉をお聞きになって、お気に召したかのようであったが、次第にお顔つきも穏やかになり、鬼火もしだいに薄れていくにつれて、ついにお姿もかき消したように見えなくなくなると、怪しい鳥もどこへ行ったのか跡形もなくなり、十日過ぎの月は峰に隠れて、木が生い茂って暗く、物の文目(あやめ)もわからない暗さに、さながら夢路をさまようような気持であった。
ほどなく白々と明けいく空に、爽(さわ)やかに小鳥のなく声が聞こえてきたので、重ねて金剛経一巻を読誦(どくじゅ)回向申し上げ、山を下り庵(いおり)に帰った。心静かにこの一夜の出来事を思い出してみると、新院のお語りになったことは、平治の乱のことをはじめ、人々の身の上・動静など全く事実どうりで、(院の語られた事実と)年月の違いもなかったので、(これは尋常ではないと、)深く畏(おそ)れ慎(つつし)んで、(このことを)誰にも語ることをしなかった。
その後、十三年を経た治承(じしょう)三年の秋、平重盛は病にかかって世を去ったので、入道清盛は、誰憚(はばか)ることなく、後白河院をお恨みして鳥羽離宮に幽閉申し上げ、さらに福原新都の茅(かや)の宮に押し込め苦しめ奉るということがあった。