「上皇(じょうくわう)の幸運(さひはひ)いまだ尽(つき)ず。重盛が忠信ちかづきがたし。
今より支(え)干(と)一周(ひとめぐり)を待(また)ば、重盛が命数(よはひ)、既(すで)に尽(つき)なん。
他(かれ)死(し)せば一族の幸福(さいはひ)此(こ)時(こ)に亡(ほろぶ)べし」。
院、手を柏(うつ)て悦(よろこ)ばせ給ひ、「かの讐(あた)敵(ども)ことごとく此の前の海に尽(つく)すべし」と、御声、谷峰に響(ひびき)て凄(すざま)しさいうべきもあらず。
魔道のあさましきありさまを見て涙しのぶに堪(たへ)ず。復(ふたた)び一首の哥(うた)に隨(ずい)縁(えん)のこころをすすめたてまつる。
B よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせん
「刹(さつ)利(り)も須陀(しゅだ)もかはらぬものを」と、心あまりて高らかに吟(うたひ)ける。
現代語訳
新院はその怪鳥に向って、「どうして重盛の命を早く奪って、雅仁・清盛らを苦しめないのか」。
怪鳥は答えて言った。「後鳥羽上皇の幸運(さいわい)はまだ尽きておりませぬ。重盛の忠義と誠実さには、まだ近づきがたいのです。あと十二年ほど待てば、重盛の寿命はもう終わっているはずです。彼さえ死ねば平氏一族の運は一気に亡ぶはずであります」。
新院は手を打って喜ばれ、「彼ら仇敵どものすべてを、ここの前の海で死に絶えさせてしまえ」と、その御声は谷や峰に響き合って、その凄まじさは口で語れそうにもない。
西行は魔道の恐ろしくあさましいありさまを見て、涙を抑えることができず、もう一度、一首の歌を捧げて仏縁帰依の御心をお勧めした。
よしや君…
(君主(おかみ)よ、たとえ昔は立派な玉座におられたとしても、お隠れになった今、それが何になりましょう。ただひたすらにご成仏を祈り上げるのみです)
「王族も土民も死後は皆同じでありますものを」と、感情が高まり(涙を)溢(あふ)れさせ、声高らかに吟(ぎん)じ上げた。