Mの一字
いったい、あの大きなからだの電人Mが、どこから、逃げだしたのでしょう。研究室のかべにも床にも天井にも、秘密の通路なんか、まったくないのです。あいつは、忍術使いのように、パッと、煙になって、きえてしまったのでしょうか。
そんなことができるはずはありません。これには、きっと、なにか恐ろしい秘密があるのです。
その事件のあくる日の晩のことです。またしても、恐ろしいことが起こりました。
博士の助手の木村青年は、用事があって、外に出ましたが、その帰り道で、博士邸から五百メートルほどの、さびしい町を歩いていますと、向こうの町かどに、赤いポストが立っていて、そのうしろに、なんだか、みょうなものが、うずくまっていました。
「おやっ、なんだろう? 人間じゃないし、動物でもない。荷物かしら。それにしても、あんなまっ黒な荷物なんて、変だなあ。」
そう思いながら、なにげなく近づいていきますと、その黒いものが、ヌーッと、姿をあらわしました。
木村助手は、棒立ちになってしまいました。
それは電人Mだったのです。この人通りのない町で、木村君を待伏せしていたのです。
木村君は、いきなり、逃げだそうとしましたが、あの黒いロボットは、恐ろしい速さで、木村君にとびかかって、鉄の腕で、うしろから、だきしめてしまいました。
「助けてくれえ……。」
木村君は、ありったけの声で、さけびましたが、そのへんは、高いコンクリート塀のつづいた、庭のひろい大きな家ばかりなので、声が聞こえなかったのか、だれも助けにきてくれるものはありません。
電人Mは木村君を、横抱きにして、トコトコ歩いていきます。
すぐそばに、神社の森がありました。電人Mは、その森の中にはいっていって、大きな木の根もとへ木村君をおろしました。
「ひどい目には、あわさない。安心しなさい。」
ロボットの口のへんの、ピアノのキーのような、たくさんの機械が、カチカチと動いて、そんな声が出てきました。人間の声ではなくて、機械の声です。
「おまえは、遠藤博士の発明の秘密を知っているだろう。」
電人Mが、また言いました。
「知らない。博士は、助手のぼくにも、その秘密を、打ち明けられないのだ。」
「ほんとうか。」
「ほんとうだ。ぼくは、助手といっても、雑用をしているだけで、かんじんなことは、みんな先生が、自分でなさるのだ。」
「それなら盗みだせ。博士の発明を書いた化学式を盗みだして、おれにくれたら、五十万円やる。どうだ。」
「だめだ。いろんな化学式を書いたノートは、たくさんあるけれども、発明のいちばん大事なところは、先生の頭の中にあるんだ。たとえ、一度はノートに書いても、だれにも見せないで、焼いてしまわれるのだ。」
「だが、おまえが、一生けんめい探りだそうとすれば、探りだせるだろう。それをやってくれ。ほうびは五十万円だ。」
「だめだ。ぼくにはできない。」
「よし、それなら、一月待ってやる。そのあいだに、探りだせ。もし一月のあいだに、探りださなかったら、おまえは、恐ろしい目にあわされるんだぞ。死ぬよりも恐ろしいことだ。わかったか。それじゃあ、きょうは、このまま帰れ。きっと約束したぞっ。」
そう言ったかと思うと、電人Mはスーッと森の中の奥へ、立ち去ってしまいました。
木村君は、しばらくは、身動きもしないで、ぼんやりしていました。なんだか、恐ろしい夢でも見たようで、いまの出来事がほんとうとは思えないのでした。
やがて、トボトボと、博士邸に帰りました。警察へ届ける気にもなりません。煙のように、きえてしまうやつですから、いまさら、追っかけてみたって、つかまえられるはずはないと思ったからです。
それからしばらくすると、遠藤博士と木村助手は、研究室の中で、ひそひそと話し合っていました。
「そうだったか。よく正直に言ってくれた。きみのからだは、わしが引き受けた。どんなことがあっても恐ろしい目になんか、あわせないようにする。きみの言うとおり、この発明はわしの頭の中にあるんだ。書いたものなど、なんにもない。きみは、いくら骨おっても、わしから、秘密を探りだすことができなかったと言えばいいのだ。」
博士は、木村助手の肩をたたいて、安心させるように言いました。
「ぼくも、そのつもりです。しかし、相手はえたいのしれない、恐ろしいやつです。このうえ、どんな方法を考えだすかしれません。先生も油断をなさらないように。」
「うん、それは知っている。すぐに、このことを警察に知らせておこう。」
博士はそう言って、立ちあがると、部屋を出ていきました。そして、ドアをしめて、廊下を五―六歩あるいたときです。いま、閉めたばかりのドアが、中から開いて、木村助手の顔がのぞきました。
「先生、ちょっと。」
おしつぶしたような、低い声で、博士を呼ぶのです。
博士は、ふりむきました。
「あ、どうしたんだ。きみの顔は、まっさおだぞ。」
「ちょっと、ちょっと、はやく。」
あおざめた木村助手が、ドアの中を指さして博士を手まねきするのです。
博士はツカツカと、あともどりして、研究室の中にはいりました。
木村君は、部屋のまん中までいって、そこにつっ立ったまま、一方の白いかべを、じっとみつめています。
「あっ!」
博士は思わず、小さな叫び声をたてました。
さっきまで、なにもなかったそのかべに、大きなMという字が、書きなぐってあるではありませんか。
「おい、木村君、きみが書いたのじゃないのかっ。」
博士はどなりつけました。
「とんでもない。ぼくがどうして、こんないたずらをするもんですか。先生のあとから、ぼくも、自分の部屋に行こうと思って、ドアに近づいたのです。そのとき部屋の中で、かすかな音がしたように思ったので、ふりかえってみると、この字があったのです。目にみえないやつが、黒いクレヨンかなにかで、書いていったのです。」
クレヨンならば、横にして書いたのでしょう。太さ三センチもある字です。またしても、ふしぎが起こりました。あいつは、きのうは、この部屋で、煙のようにきえたかと思うと、きょうは、まったく姿をあらわさないで、どこからか、はいってきて、かべに字を残していったのです。
すぐこのことを、警察に電話しましたので、捜査主任が部下をつれて、やってきました。そして研究室をもう一度、念入りに調べましたが、なんの手がかりもつかめません。秘密の通路なんかどこにもないことが、いっそう確かになったばかりです。