第一信
長い間全く手紙を書かなかったことを許して下さい。それには理由があったのだ。数年来まるで恋人の様に三日にあげず手紙を書いていた君のことを、この一月程の間と云うもの、僕は殆ど忘れていた。僕に新らしい話相手が出来たからだなどと思ってはいけない。そんな風の並々の理由ではないのだ。君は僕の「色眼鏡の魔法」というものを多分記憶しているだろう。僕が手製で拵えたマラカイト緑とメチール菫の二枚の色ガラスを重ねた魔法眼鏡の不気味な効果を。あの二重眼鏡で世界を窺くと、山も森も林も草も、凡ての緑色のものが、血の様に真赤に見えるね。いつか箱根の山の中で、君にそいつを覗かせたら、君は「怖い」と云って大切なロイド眼鏡を地べたへ抛り出してしまったことがある。あれだよ。僕がこの一月ばかりの間に見たり聞いたりしたことは、まったくあの魔法眼鏡の世界なのだよ。眼界は濃霧の様にドス黒くて奥底が見えないのだ。しかしその暗い世界をじっと見つめていると、眼が慣れるにつれて、滲み出す様に真赤な物の姿が、真赤な森林や、血の様な叢が、目を圧して迫って来るのだ。
君の少し機嫌を悪くした手紙は今朝受取った。恋人でなくても、相手の冷淡は嫉ましいものだ。僕は心にもない音信の途絶えを済まない事に思った。と云って、何もそれだからこの手紙を書き出したのではない。もっと積極的な意味があってなのだ。君の手紙の中に黒川先生の近況を尋ねる言葉があったね。君は大阪にいて何も知らないけれど、君のあの御見舞の言葉は、偶然とは思われぬ程、恐ろしく適切であったのだ。僕は先生の身辺に継起した出来事について君の御尋ねに答えるべきなのであろうが、それは、いくら僕の手紙が饒舌だからと云って、一度や二度の通信では迚も書き切れるものでない。それ程その出来事というのが重大で複雑を極めているのだ。しかも事件はまだ終ったのではない。僕の予感ではこの殺人劇のクライマックスは、つまり犯人の最後の切札は、どっかしら見えない所に、楽しそうに、大切にしまってあるのだ。
実を云うと、僕自身もこの血腥い事件の渦中の一人に違いない。なぜと云って、黒川博士の身辺の出来事というのは、君も知っている例の心霊学会のグループの中に起ったことであって、僕もその会員の末席をけがしているからだ。僕がどういう気持で、この事件に対しているか、事件そのものは知らなくても、君には大方想像出来るであろう。黒川先生や気の毒な被害者の人達には、誠に済まぬことだけれど、気の毒がったり、途方にくれたり、胸騒ぎしたりする前に、先ず探偵的興味がムクムクと頭をもたげて来るのを、僕はどうすることも出来なかった。事件が実に不愉快で、不気味で、惨虐で、八幡の籔知らずみたいに不可解なものである丈け、被害者にとっては何とも云えぬ程恐ろしい出来事であるのに反比例して、探偵的興味からは実に申分のない題材なのだ。僕はつい強いても事件の渦中に踏み込まないではいられなかった。