躄乞食の証言が決して出鱈目でなかったことが分った。庇髪に矢絣の、明治時代の小説本の木版の口絵にでもあり相な娘さんが、昭和の街頭に現われたのだ。それ丈けでも何となく気違いじみた、お化けめいた感じなのに、その不気味な令嬢が美しい未亡人の裸体殺人事件の現場に出入りしたというのだから、これが人々の好奇心を唆らない訳がなかった。仮令直接の犯人ではないとしても、この娘こそ怪しいのだと考えないではいられなかった。
綿貫検事は、未亡人の実兄や女中を捉えて、二人の人物に心当りはないかと尋ねたが、洋服の紳士の方は余り漠然としていて見当がつかぬし、矢絣の娘の方は、そんな突拍子もない風体の女は全く知らない、噂を聞いたことすらないとの答えであった。
以上が当夜捜査の人達が掴み得た手掛りらしいものの凡てであった。僕が現場で見聞し、後日綿貫検事から聞込んだ事柄の凡てであった。この事件の最も奇怪な点丈けを要約すると、被害者が全裸体であった事、致命傷の外に全身に六ヶ所の斬り傷があって、その血がてんでんに出鱈目の方向へ流れていたこと、現場に奇妙な図形を記した紙片が落ちていて、それが唯一の証拠品であったこと、時代離れのした庇髪に矢絣の若い女が現場に出入した形跡のあったことなどであるが、しかも更らに奇怪な事は、事件後約一ヶ月の今日まで、これ以上の新しい手掛りは殆ど発見されていないのだ。第一の事件を迷宮に残したまま、第二の事件が起ってしまったのだ。という意味は、姉崎未亡人惨殺事件は、殺人鬼の演じ出した謂わば前芸であって、本舞台はまだあとに残されていた。彼の本舞台は、降霊術の暗闇の世界に在ったのだ。悪魔の触手は、遠くから近くへと、徐々に我が黒川博士の身辺に迫って来たのだ。
では第一信はここまでにして、まだ云い残している多くの事柄は次便に譲ることにしよう。夜が更けてしまったのだ。この報告丈けでは君は、若しかしたら事件に興味を起し得ないかも知れぬ。探偵ごっこを始めるには余りに乏しい材料だからね。だが第二信では、幾人かの心理的被疑者を君にお目にかけることが出来るだろうと思う。
十月二十日
祖父江進一
岩井坦君
(註。――本文中「註」と小記した箇所の上欄に、左の如き朱筆の書入れがある。受信者岩井君の筆蹟であろう)
この躄乞食を証人としてでなく犯人として考えることは出来ないのか。祖父江はその点に少しも触れていないが、この醜怪な老不具者が真犯人だったとすれば、少くも小説としては、甚だ面白いと思う。なぜ一応はそれを疑って見なかったのであろう。