迂濶にも僕はそのことを全く知らなかったので、びっくりした様な顔をしたに違いない。
「アラ、御存知ありませんの。家の龍ちゃんがピッタリ予言しましたのよ。事件の二日前の晩でした。突然トランスになって、誰か女の人がむごたらしい死に方をするって。日も時間もピッタリ合っていますのよ。主人お話ししませんでして」
「驚いたなあ、そんな事があったんですか。僕ちっとも聞いてません。姉崎さんということも分っていたのですか」
「それが分れば何とか予防出来たんでしょうけれど、主人がどんなに責めても、龍ちゃんには名前が云えなかったのです。ただ繰返して美しい女の人がって云うばかりなんです」
龍ちゃんというのは、黒川博士が養っている不思議な盲目の娘で、恐らく日本でたった一人の霊界通信のミディアムなのだ。その娘は今に君の前に登場するであろうが、彼女が冥界の声によって、予め姉崎未亡人の死の時間を告げ知らせたという事実は、僕をギョットさせた。あのめくらが、いつかの日真犯人を云い当るのじゃないかな、という恐ろしい考えがチラッと僕の心を遏ぎった。
「それに、昨夜の事でしょう。祖父江さん、主人はただ怪我をしただけではありませんのよ」夫人は僕の方へ顔を近づけて、ギラギラ光る目で僕の額を見すえて、ひそひそと云われるのだ。「何か魂の様なものを見たのですわ、きっと。湯殿の脱衣室の鏡ね、あの大きな厚い鏡を、主人は椅子で以ってメチャメチャに叩き割ってしまいましたのよ。きっと何かの影がそこに写ったからですわ。尋ねても苦笑いをしていてなんにも云いませんけれど。そのガラスのかけらを踏んだものですから、足の裏に少しばかり怪我をしたんですの」
「では、今夜の会はお休みにした方がよくはないのですか」
「イイエ、主人は是非いつもの様に実験をやって見たいと申していますの。もう部屋の用意もちゃんと出来てますのよ」
そこへ咳ばらいの声がして、ドアが開いて、黒川先生が入って来られた。君も知っている様に、先生の風采は少しも学者らしくない。髭がなくて色が白く、年よりはずっと若々しくて、声や物腰が女の様で、先生の生徒達が渾名をつける時女形の役者を聯想したのも無理ではないと思われる。
先生は「ヤア」と云って、そこの肘掛椅子に腰をかけられたが、僕達の取交していた話題を鋭敏に察しられた様子で、
「大した怪我じゃないんだ。こうして歩けるんだからね。馬鹿な真似をしてしまって」
左足に繃帯が厚ぼったく足袋の様にまきつけてある。
「犯人はまだ分らない様だね。君はあれから検事を訪問しなかったの」
先生は、風呂場の鏡のことを僕が云い出すのを恐れる様に、すぐ様話題を捉えられた。あれからというは僕達が姉崎さんの葬式でお会いしてからという意味なのだ。
「エエ、一度訪ねました。併し、新しい発見は何もないと云っていました。その筋でも、やっぱり例の矢絣の女を問題にしている様ですね」
僕が矢絣の女というと、先生は何ぜか一寸赤面された様に見えた。先生が顔を赤らめられるなんて非常に珍らしい事なので、僕は異様の印象を受けたが、その意味は少しも分らなかった。