轢死者の首
闇の中に佇んで暫らく待っていると、やっと目の前の壁が開いて、小池助手がフラフラと逃げ出して来た。
「驚きました。実にいやな気持ですね。僕は半分は目をつむってましたよ。そうでないと、今にも気が変になるような気がして」
「なる程。これじゃ、みんなが逃げて帰る筈だ。進めば進む程、物凄くなるんだからね」
二人はボソボソと囁き交しながら、またしても壁伝いに闇の中を歩きだした。真の闇というものは、人の声を低くするものである。そこに漂う何かしら隠微な魂が高話を抑えつけて、囁き声にしてしまうものである。
「どうです? 少し驚いたでしょう。だが、これはまだホンの序の口ですよ。本当に怖いのはこれからです。引返した方がおためですぜ。気絶なんかされちゃ困りますからね」
闇の中から低い嗄れ声が響いて来た。恐らくは骸骨の場合と同じように、どこかにラウド・スピーカーがあって、誰かが遠くから喋っているのであろうが、闇の中だけに、つい鼻の先に真黒な奴が踞まってでもいるような気がして、二人は思わず立止った。
「ハハハハハハ、ひどくおどかすねえ。それに、帰れ帰れっていうのは、すこし卑怯じゃないか」
「そうですね。人を喰ったものですね」
大多数の見物は、この辺でとどめを刺されて、愈々引返す気になるのであろうが、博士達は引返さなかった。鏡の部屋の経験で、これが世の常の化物屋敷でないことが分ったけれど、この二人は、不気味であればある程、却って好奇心をおこす側の人々であった。それに、肝腎の死体捜索という大目的があるのだから、場内を一巡しないでは意味をなさぬ訳だ。並々の見世物でなくて、大人の二人にも、かなりのスリルを感じさせるのは、謂わば予期しなかった儲けものであった。
手探り足探りで歩く程に、やがて徐々にあたりがほの明るくなって来た。
「また竹藪があるようだね」
如何にも、黒布のトンネルのような通路を出ると、またしても鬱蒼たる竹藪の細道であった。そこをガサガサ云わせながら辿って行く内に、ヒョイと右側を見ると、その竹藪に切れ目があって、幅一間奥行二間ほどの、藪に囲まれた空地があった。その部分だけ薄青い電燈がついているので、ハッキリ見えるのだが、空地の真中に大きな十字架が建っていて、そこに一人の女が大の字にしばりつけられている。青い獄衣のようなものを着て、その胸の部分だけが、前に括り合わされ、両腋から乳の辺まで、肌が現われている。
「磔刑人形ですね」
その十字架の両側には、チョン髷に結った二人の男が、繩の襷をかけて、長い鎗を左右から女の両腋につきつけている。そして、その鋒鋩が女の両の乳の下を、抉っている。それはここに細叙することを憚るほどの、見るものはたちまち吐き気を催すほどの、無残な有様であった。
女の美しい顔は、濃い藍色であった。恨めしげに見開いた目は真赤であった。唇はドス黒く見えた。眉をしかめ、目を狐のように逆立て、口を大きく開いて、わめいている形相の物凄さ。
しかも、ここにも異様なからくり仕掛けがあった。二人の男の手が動いて、鎗の鋒鋩がグイグイとそこを抉った。すると、アア、何ということだ。磔刑女は、ゾーッと歯ぎしりが出るような、聞くも無残な声で叫ぶのである。一度聞いたら、一月も二月も耳に残るような恐ろしい声で、わめくのである。マイクロフォンとラウド・スピーカーを、何と巧みに使いこなしていることだろう。
お化や幽霊を怖がらなかった二人も、流石にこの生人形には胸が悪くなった。お互の顔色が青くなっていることを認め合った。
「先生、早く通りましょう。これでは見物が逃げ戻る筈ですよ。なんてひどい見世物でしょう」
「管轄の警察の手落ちだね。こんなものを許すなんて。多分いつものお化け大会だぐらいに思って、よく調べなかったのじゃないかな」
それからの長い竹藪の細道には、或は右に或は左に、大小様々の空地があって、そこにありとあらゆる無残なもの、血腥いもの、一口で云えば、解剖学教室の最も怖ろしい光景に類する恐怖が、次から次へと、ほの暗い照明の中に、毒々しい生人形の塗料を光らせて、真に迫って、並んでいたのである。或ものは断末魔のうめきを立て、十本の指に空を掴み、あるものは知死期の痙攣に震え、あの死の恐怖、大手術の恐怖を、まざまざと見物の目の底に焼きつけようとしていたのである。
その光景の悉くを描写する事は、読者の為めに避けなければならない。それらの内の、最も手軽な一例を記すだけでも、恐らく十分すぎるであろう。
そこにはやや広い空地があって、背景は暗く繁った森林、左手にトンネルが魔物のような真黒な口を開き、その中から二本の鉄路が流れ出している。レールの土台を除いて、一面の草原、今汽車が通過したばかりという心持である。
その線路と草原とのあちこちに、今轢断されたばかりの若い女の死体が、転がっている。無論それらは一つに連続した死体ではない。六つ程に分れて転がっている死体だ。
レールも、青い草も血に染まっている。夫々の切口の恐ろしさ。何かしら白いものを中心にした真赤な輪であった。
切り離された首だけが、見物に最も近い草の上に、チョコンと、切口を土につけて立っていた。藍色に青ざめているけれど、美しい顔だ。
桐の木に彫刻をして、胡粉を塗り、塗料を塗り、毛髪は一本一本植えつけ、歯は本当の琺瑯義歯を入れるという、この生人形というものは、いつの世、何人が発明したのであろう。顔の小皺の一本まで、生けるが如き生々しさ。生人形とはよくも名づけたものである。
轢死者の首は、美しい眉をしかめ、口を苦悶にゆがめて、じっと目を閉じていた。アア、何という生々しさ。今汽車が通過したばかり、そして、レールからコロコロと転がって来て、そこへ据わったばかりという心持を、どんな名画も及ばぬ巧みさで描き出していた。まだ反動が鎮まらないで、生首はユラユラと揺れているかとさえ疑われた。
「先生、先生」
小池助手が青ざめた顔で、乾いた唇で、強く囁きながら、博士の腕を捉えた。
「先生、僕の目がどうかしているんでしょうか。よくこの首を見て下さい。こんな人形ってあるでしょうか。若しや……」
あとは口に出すのも恐ろしいように、云い渋った。
「妙子さんではないかというのだろう。僕もそれに注意しているんだが、少しも似ていないよ。生顔と死顔とは相好が変るものだと云っても、こんなに違う筈はないよ」
「そういえば、そうですね。しかし、僕はなんだか、本当の人間の首のような気がして……」
小池助手がそこまで囁いた時であった。まるで、その言葉を裏書でもするように、生人形の首が、パッチリと目を見開いたのである。涼しい黒目勝の目だ。その黒目が右に左にキョロキョロと動いた。
二人はギョッとして、一歩あとにさがった。例のからくり仕掛にしては、少し出来すぎている。
呆然と立ちすくんでいる二人の前で、生首の口辺の皺がムクムクと動いて、やがて、紫色の唇が開き、白い歯がニッと現われた。そして、笑ったのである。草原の上の生首が声を立てないでニヤニヤ笑ったのである。一瞬間、流石の法医学者も、勇敢なその助手も、動悸の早まるのをどうすることも出来なかった。顔は二人とも紙のように青ざめていた。
しかし、やがて、宗像博士は笑い出した。
「これは君、生きた人間だよ。若い女が土の中へ全身を埋めて、首だけ出しているんだよ」
無論その外に考え方はなかった。恐らくそこに木の箱でも埋めて、身体が冷えぬような設備をして、そんな真似をしているのであろうが、それにしても、何という突飛な、人騒がせな思いつきをしたものだ。薄暗い草原の中で、人形とばかり思い込んでいた轢死女の首だけが、ニヤニヤ笑うのを見たら、大抵の見物は腰を抜かしてしまうであろう。
「なる程考えたものだねえ。これ一つでも入場料だけの値打はありそうだぜ」
「僕はこんな気味の悪い見世物は始めてですよ。この興行主はよっぽど変り者に違いありませんね」
まだ青ざめた顔で、乾いた唇で、そんなことを話しながら、轢死の場面を立去ろうと、二三歩あるいた時である。小池助手は何かしら、うしろに異様な物の気配を感じて、ハッと振向いた。
すると、線路の上に転がっていた、血みどろの腕が、まるで爬虫類ででもあるように、スーッと草原の上を這って、こちらへ近づいて来るのが見えた。しかも、恐ろしいことには、それが見る見る柵を越して、通路の方まで這い出して来たのである。
「ワアッ!」
小池助手は思わず声を上げて、博士の肩にしがみついた。からくり仕掛けと分っていても、青白い腕ばかりが、暗い地面を這い出して来るなんて、どんな大人にも気味のよいものではない。
すると、又してもいつもの嗄れ声が、どこからともなく響いて来た。
「お客さん、これが二枚目の紙札ですよ。これを持って出ないと賞金はとれませんよ。だが、用心して下さい。死びとの腕はお客さんに咬みつくかも知れませんぞ」
又しても、陰気な脅し文句だ。見れば、死人の指には、一束の小さな紙札が握られている。
「なるほど、なるほど。よく考えたものだねえ。しかし、これを受け取れば、我々は完全に関所を通過したことになる訳だね」
博士はそんなことを呟きながら、腰をかがめて、人形の腕を掴むと、その指から二枚の紙札を抜き取った。
「なる程、大きな判が捺してあるね」
博士は立上って、感心したように紙札を眺めていたが、さい前のと同じように、二枚とも自分のポケットに納めた。
それからまた、幾つもの思い切って無残な場面を通りすぎて、さしもに長い竹藪も終りに近いところまで辿りついた。
「先生、とうとうおしまいのようですね。しかし、どこにも本物の死体なんて、なかったじゃありませんか」
小池助手は失望の面持である。あれだけ夥しい死びと人形の中に、一つも本物が混っていないなんて、却って不自然なような気さえした。
「だが、まだここに、何だか物々しい場面があるぜ。ここだけひどく薄暗いじゃないか」
博士はそこの柵の前に立って、じっと奥の方を見つめていた。
そこには、竹藪に囲まれ雑草の生い茂った空地に、一軒の荒屋が建っていた。六畳一間きりの屋内は、戸も障子もなくて見通しである。その部屋一杯に、色褪せた萠黄の古蚊帳が吊ってある。光と云っては、その蚊帳の上に下っている青いカヴァーをかけた五燭の電燈ばかり。蚊帳の中は殆んど見すかせぬ程の暗さである。
「なんだろう。蚊帳の中に何かいるようじゃないか」
「いますよ。よく見えないけれど、何だか裸体の女のようですぜ。アア、真裸体です。それでこんなに暗くしてあるんですよ」
「なにをしているんだろう」
「殺されているんですよ。顎から胸にかけて、黒いものが一杯流れています。血です。裸体に剥がれて、惨殺された女ですよ」
「五体は揃っているようだね」
「エエ、そうのようです」
「髪は断髪じゃないかい」
「断髪ですよ」
「肉づきのいい、若い女だね」
話している内に、少しずつ目が慣れて、蚊帳の中の女の姿が浮上って来た。
「調べて見ましょうか」
「ウン、調べて見よう」
二人は意味ありげな目を見交した。何かツーンと痺れるような感じが、小池助手の背筋を這い上った。
二人は柵を越えて、無言のまま中に入り、膝を没する雑草を踏み分けて、荒屋の上に上って行った。そして、先ず博士が古蚊帳の裾に手をかけると、それをソッとまくり上げた。