明智小五郎
神社の森の中で、宗像博士と北園竜子との不思議な問答が行われている頃、警視庁の中村捜査係長は、麻布区龍土町にある、私立探偵明智小五郎の事務所を訪ねていた。
明智小五郎は、年こそ若かったけれど、私立探偵としては、宗像博士の先輩であり、随ってその手腕も、博士をしのぐものがあった。現に川手庄太郎氏も、この物語の初めにも記した通り、この事件をまず明智探偵に依頼しようとしたが、丁度旅行中で、いつ帰京するとも判らなかったので、それではと新進の宗像博士を選んだのであった。
明智は三重渦巻指紋の事件が起る少し前、政府からある国事犯捜査の依頼を受けて、朝鮮に出張し、京城を中心として半島の各地を飛び廻っていた。そして、首尾よくその目的を果し、今日帰京したばかりのところであった。
中村捜査係長は、明智から帰京の通知を受けると、何はおいても、今度の奇怪な殺人事件について、彼の意見を聞いて見たいと思った。係長は明智とは宗像博士よりもずっと早くからの知合で、ごくうちとけた交りを結んでいた。
予め電話があったので、明智は事務所の応接室に、久し振りの友達を待ち受けていた。
「あちらの仕事は大変うまく行ったそうだね。お目出度う」
中村警部は明智の顔を見ると、先ずその喜びを述べるのであった。
「有難う。つい今し方まで陸軍関係の晩餐会に呼ばれていたんだが、恐ろしく歓待してくれてね、なんだか英雄にでもなったような気持がしているんだよ。しかしああいう種類の仕事は、随分敏捷に立廻らなければならないし、冒険味もたっぷりなんだが、実を云うと、僕なんかには、例えば今君がやっている、三重渦巻指紋の事件などの方が、ずっと魅力があるね」
明智は大仕事を済ませたばかりの、のびやかな気持から、いつもよりは多弁であった。
「君はあの事件を注意していたのかい」
「ウン、京城の新聞の簡単な記事で初めて見たんだが、それでも僕はすっかり惹きつけられてしまったよ。何とも云えない一種の匂いがあるんだ。僕の鼻は猟犬のように鋭敏だからね。ハハハ……、だから帰る途中大阪で、事件の最初からの新聞をすっかり揃えて貰って、汽車の中で読み耽って来たのさ」
「ハハ……、君らしいね。だが、そいつは都合がいい。実は今夜こんなに遅くやって来たのも、あれについて君の意見が聞きたかったからだよ。明日まで待っていられなかった程、僕は弱っているんだ。何だか壁のようなものにぶッつかってしまってね。白状すると全く途方に暮れているんだ。あんなに新聞が騒ぐものだから、世間がうるさくってね。僕がまあこの事件の担当者みたいになっているので、やり切れないのだよ。
で、君はあの事件の大体の輪郭は分っている訳だね」
「ウン、新聞に出ただけは分っている。だが、君の口から詳しい話が聞きたいもんだね」
「無論話すがね。それよりも、ここにいいものがあるんだ。僕個人の捜査日記だよ。君に読んで貰おうと思って持って来たのだ。口で云うよりも、これを一読してくれれば、一切がよく分ると思う」
警部はポケットから大型の手帳を取出して、そのある頁を開き、明智に手渡した。
明智はそれを受取ると、早速読み始めた。ソファに深く凭れ込んで、長い脚を組んで、その膝の上に手帳をのせ、丁寧に頁を繰って行った。
疑問の箇所にぶつかると、読むのをやめて、警部に質問する。警部は一々詳細に答える。そんなことを繰返して、たっぷり三十分程も費すうちに、明智は事件の経過をすっかり呑み込んでしまったように見えた。
「遠慮なく感想を聞かせてくれたまえ。僕は渦中にあるので、冷静な判断がむずかしいのだ。全く白紙でこの事件を見渡して、君はどう考えるね」
警部が促すと、明智はソファに凭れ込んで、腕組みをして静かに目をつむったまま、暫らく黙り込んでいたが、やがて落ちついた口調で話しはじめた。
「僕は宗像君とは二三度会ったばかりだが、彼の一種の才能には、深く敬意を表している。恐ろしい男だ。だが、今度の事件は流石の彼も、少なからず手古摺っているようだね。いつも犯人に先手をうたれて、後へ後へと廻っている。被害者は予め分っているのに、一人だって助けることは出来なかった。宗像君にしては珍らしい不成績だね。エ、そうは思わないかね」
明智はそこで言葉を切って、じっと中村警部の顔を見た。なぜかその唇の辺に幽な微笑が浮かんでいる。警部にはその微笑の意味が分らなかった。商売敵に対して非難めいた口を利いた事を、はにかんでいるのだと考える外はなかった。
「恐ろしい事件だ。この犯人は、あの俊敏な宗像博士よりも、更に一枚上手の役者らしいね。新聞は魔術師だなんて書き立てているが、全く魔術師だ。その上に、この犯人は露出狂だね。殺人その事よりも、その結果をできるだけ飾り立てて、世間に見せびらかしたいのだ。一種の狂人だね。狂人の癖に、恐ろしく賢い奴だ。名探偵と云われる宗像君を、思うままに飜弄するほど賢くて抜目のない奴だ。
しかし、宗像君も、なかなか味をやっているね。殊に隅田川に投げ込まれた小函の包装から、犯人の住所をつきとめたあたりは、流石に水際立っている」
「だが、それも後手だったよ」
警部は投げ出すように云って、唇を噛んだ。
「この北園竜子という女のやり口が、又実に面白い。引越しの前晩に、沢山の罐詰とパンを買入れた点など、興味津々としてつきないものがあるよ。君の手帳には、その記事の横に赤い線が引いてあるが、これはどういう意味だね」
「僕には全く見当がつかない。多分犯人は人里離れた山奥へでも身を隠す用意をしたのだと思うが、何だかそれも信じられないような気がする。ただ、僕はその事実を聞いた時に、ゾーッとしたのだよ。なぜか分らないが、胸の中を冷い風が吹き過ぎたような、変てこな気持がしたんだ。それで赤線など引いたのだろう」
「ハハハ……、なる程渦中にあると盲目になるもんだね。だが、君の潜在意識はちゃんと真相を感づいていたのだよ。君がゾーッとしたというのは、その口の利けない潜在意識が、非常信号を発したのさ。ハハ……、僕には犯人の隠れ場所は大方想像がついているよ」
「エッ、隠れ場所が? 冗談じゃあるまいね。ど、どこだい? それは」
警部は思わず椅子から立上って、頓狂な声を立てた。
「なにも慌てることはない。お望みとあれば、君をその場所へ御案内してもいいよ。だが、宗像君程のものが、そこへ気のつかぬ筈はない。ひょっとしたら、今晩あたり、宗像君単独で、その場所へ犯人を捉えに行っているかも知れないよ」
「そんな近い所なのか」
「ウン、北園というのはなかなか利口な女だよ。君達を錯覚に陥れようとしたのだ。引越しをして、家を空家にしてしまえば、その家はもう捜査網から除外されるわけだからね。その日から、一番安全な隠れ場所に一変する」
「エッ、するとあいつは、あの空家に隠れているというのか」
「若しその女が、僕の想像しているような賢い奴だったらね」
「ウーン、そうか。成程、あの手品使いの考えつきそうな事だ。よしッ、兎も角も確めて見なくっちゃ。明智君、僕はこれで失敬するよ」
「まア、待ち給え。君が構わなければ、僕も一緒に行ってもいい。……ア、電話だ。一寸待って呉れ給え」
明智は急がしく卓上電話の受話器を取って、一こと二こと話したかと思うと、その受話器を中村警部の方へ差し出しながら、
「君だよ。捜査課の徳永君からだ。何だかひどく慌てているぜ。重大な用件らしい」
警部はすぐさま受話器を耳に当てた。
「エッ、宗像博士が? 発見したって?……ウン、青山の……明神の境内だね。……エ、社殿の床下?……ウン、分った、分った。よし、僕はここから直ぐ行くから、君達も手配をして、駈けつけてくれ給え」
中村係長は興奮のため、顔を真赤にして、ガチャンと受話器を置くと、明智に事の次第を告げた。
「やっぱり君の推察の通りだった。あの女は空家の屋根裏に隠れていたんだって。そこから屋根を破って逃げ出したのを、宗像博士が追いつめて、近くの神社の境内で捉えたらしい。博士から今電話で知らせて来たというのだ。僕はすぐ出かけるが、君は……」
「無論お供するよ。北園という女の顔も見たいし、久し振で宗像君にも会いたいからね」
明智は云いながら、呼鈴を押して、助手の小林少年を呼び、電話で車を命じさせて置いて、手早く外出の用意をするのであった。