黒い影
荒屋の縁側に上って、古蚊帳をまくると、天井に仕掛けた青い豆電燈の幽かな光を受けて、全裸の美女が、まるで水の底の人魚のように横わっていた。二人は這うようにして、その生々しい生人形の側へ近づいて行った。
「どうもそうらしいね」
「エエ、この顔は妙子さんにそっくりです」
小池助手の鼻の先に、ふっくらとした美女の肩がもり上っていた。彼はオズオズとその青ざめた肌に指を当てて見た。
冷い。氷のような冷さが、指の先から心臓まで伝わって来るように感じられた。それを我慢しながら、グッと押して見ると、美女の肩が、靨のように凹んで行った。柔かいのだ。ゴムのように柔かいのだ。
博士は、ハンカチを取り出して、ベットリと美女の胸を染めた黒いものに押し当て、それを目の前に持って来て眺めたり、匂を嗅いだりしていた。ハンカチには黒い液体が滲んでいる。
「君、懐中電燈をつけてごらん」
小池助手はポケットから、小型の懐中電燈を取り出して、スイッチを押し、その光を博士のハンカチに当てた。
今まで青い電燈の下で、黒く見えていたハンカチの汚点が、赤黒い血の色に変った。
博士は無言のまま、ハンカチを助手に渡すと、胸の傷痕を調べた。
「心臓を抉られている。だが……」
博士は出血量が案外少いことを不審に思っているらしく、なお死体の全身を眺め廻していたが、
「アア、やっぱり絞殺されていたんだ。そして、ここへ運んで来てから、舞台効果を出すために、心臓を抉ったのに違いない」
と、独言のように呟いた。
「昨夜、寝室で絞殺されたのでしょうか」
「そうらしい。でなければ、あんなに易々とベッドの中へ隠したり、塵芥箱の中へ隠したり出来ない筈だからね。……犯人は、今朝まだ薄暗い内に、これを塵芥車にのせて、そこの神社の森の中へ引っぱって来た。それから、死体を担いで、化物屋敷のテントに忍び込み、この蚊帳の中の生人形と置き換えたのだ。心臓を抉ったのは、ここへ来てからに違いない。無論、最初からここへ死体を隠すつもりで、見当をつけて置いたのだろう。この場面を選んだのは、電燈も薄暗いし、蚊帳の中といううまい条件が揃っていたからだ。この中へ置けば、我々のように蚊帳をまくって見る見物なんかありやしないから、急に発見される心配はないと思ったのだ」
「それに、大抵の見物は、ここまで来ないで、逃げ帰ってしまうのですからね。……でも、見世物小屋の人達に、よく見つからなかったものですね」
「犯人がここへ来た頃は、まだ夜が明けたばかりで、みんな寝ていたのだろう。それに、何も正面の入口から入らなくても、この場面のすぐうしろから、テントの裾をまくって忍び込めば、訳はないんだからね」
「早速、川手さんと中村係長に知らせなければなりませんね」
「ウン、電話をかけることにしよう。……だが、小池君、ちょっと待ち給え。さい前渡された二枚の紙札が何だか気になるんだ。懐中電燈をつけた序に調べて置こう」
紙札というのは、例の暗闇のなかの骸骨と、叢を這い出して来た生腕とから受取った、化物屋敷通過証ともいうべき紙片である。
博士はその二枚の紙片を、ポケットから取り出し、小池助手のかざす電燈の光の中で、丁寧に調べて見た。
紙片は二枚とも同質同形で、その表面には、夫々「第一引換券」「第二引換券」と筆太に記され、その真中に「丸花興行部之印」という大きな赤い判が、ベッタリと捺してある。
二枚とも表面を調べ終ると、博士はそれを裏返して、懐中電燈の光に照らして見た。
「アア、やっぱりそうだ。君、これを見たまえ」
二枚とも、紙片の真中に、黒い指紋がハッキリと現われていた。偶然についたのではなくて、指の腹に墨をつけて、態と捺した指紋である。
博士は胸のポケットから、小型拡大鏡を出して、紙片の上に当てて見た。
「三重渦状紋だ、悪魔の紋章だ」
「例のいたずらですね」
「我々を嘲笑しているのだよ」
「しかし、あの骸骨や、人形の腕が、これを持っていたのは変ですね。丁度僕らの受取った札に、あいつの指紋が捺してあるというのは。……若しや、あいつ、まだこの中にウロウロしているんじゃないでしょうか」
小池助手は異様に声を低くして、じっと博士の顔を見つめた。
「そうかも知れない。君、あれは何だろう。あの藪の中にいる黒いものは……」
博士の目は、蚊帳を通して、荒屋のうしろの竹藪に注がれていた。
「エッ、黒いものですって?」
「ホラ、あすこだ。海坊主のような真黒な奴だ、まさか、こんな人の目につかぬところに、化物の人形が置いてある筈はない」
博士は、荒屋の背後の竹藪の中を、目で知らせながら囁いた。殆ど光線の届かぬ闇の中だ。そう云われて見ると、何かそこに、闇よりも濃い影のようなものが、朦朧と立っているように感じられる。
博士は刺すような眼光で、それを睨みつけている。闇の中の怪物も、身動きもせず、こちらを見つめている様子だ。蚊帳を隔てて、殆んど三十秒ほども、息づまるような睨み合いがつづいた。
「君、来たまえ」
博士はそう囁くと、いきなり蚊帳をまくって、荒屋の裏の藪の中へ飛び込んで行った。
ガサガサと竹の揺れる物音。
「そこにいるのは誰だッ」
博士の叱りつけるような重々しい声に応じて、闇の中から異様な笑い声が響いて来た。クックックッと、口を押えて忍び笑いをしているような、まるで怪鳥の鳴き声のような、何とも云えぬいやな感じの音響であった。そして、又ガサガサと竹が鳴って、黒い怪物は素早く藪の中へ逃げ込んだ様子である。
「待てッ」
闇の中の盲目滅法な追跡が始まった。
小池助手も、博士のあとを追って、蚊帳を飛び出し、竹藪をかき分けながら、音のする方へ急いだ。
厚い竹藪の壁を押し分けて向うに出ると、そこは以前に通り過ぎた迷路の中で、両側に藪のある曲りくねった細道がつづいていた。
「どちらへ逃げました?」
「分らない。君はそちらを探して見てくれたまえ」
博士は云い捨てて、迷路を右へ走って行く。小池助手は左の方へ突進した。
右に折れ左に折れ、いくら走っても際限のない竹藪の細道であった。もう自分がどの辺にいるのかさえ見当がつかない。黒い怪物は影も見えず、宗像博士がどの辺を追跡しているのか、それさえ全く分らぬ。
ふと立止ると、厚い竹藪の向側に、ガサガサと人の気配がした。重なり合った竹の葉をすかして見ても、薄暗くてよく分らない。何かしら黒い人影が感じられるばかりだ。
「先生、そこにいらっしゃるのは先生ですか」
声をかけても相手は答えなかった。答える代りに、又ガサガサと身動きして、クックックッと、あの何とも云えぬ不気味な笑い声を立てた。
小池助手は、それを聞くと、ギョッと立ちすくんだが、やがて気を取りなおして、いきなり竹藪をかき分けながら、
「先生、ここです。ここです。早く来て下さい」
と叫び立て、顔や手の傷つくのも忘れて、藪の向側へくぐりぬけた。
だが、くぐりぬけて見廻すと、怪物はどこへ逃げ去ったのか、影もない。そして又、八幡の藪知らずの、際しもない鬼ごっこが始まるのだ。
「小池君」
ヒョイと角を曲ると、向うから宗像博士が走って来た。
「どうだった。あいつに出会わなかったか」
「一度声を聞いたばかりです。確かにこの迷路のどこかにいるには違いないのですが」
「僕も声は聞いた。竹藪のすぐ向側に立っているのも見た。しかし、こちらがそこまで行く間に、先方はどっかへ隠れてしまうんだ」
二人が立話をしている所へ、ガサガサと人の気配がして、三人の男が近づいて来た。見世物小屋の人達である。さい前の叫び声を聞きつけて、様子を見にやって来たのだ。
博士は三人のものに、事の仔細を語り、怪物逮捕の手伝いをしてくれるように頼んだ。
「小池君、じゃ、君はこの人達と一緒に、出来るだけ探して見てくれたまえ。僕は近くの電話を借りて、中村君に警官隊をよこしてくれるように頼むことにする。
外は明るいのだし、大勢の見物が集っているんだから、犯人が外へ逃げ出すことはなかろう。ナアニ、もう袋の鼠も同然だよ」
博士は云い捨てて、惶しく迷路の彼方へ遠ざかって行った。