千人の宗像博士
何だか魔法にかけられたような、それとも気でも狂ったのじゃないかと怪しまれるような、一種異様の心持であった。場所が化物屋敷の中だけに、そして、今の今まで、文字通りの闇の中を歩いて来ただけに、博士はついこの見世物の考案者を買被ったのであった。
少し落ちついて、よくよく見れば、博士の正面にあるものは、大きな鏡の壁に過ぎないことが分って来た。
「ナアンだ。鏡だったのか。しかし、それにしても、この見世物は普通の化物屋敷なんかと違って、なかなか味をやりおるわい」
だが、ナアンだ鏡かと、軽蔑するのは少し早まり過ぎた。この妙な小部屋には、まだまだ博士をびっくりさせるような仕掛けが、しつらえてあったのだから。
ヒョイと右を向くと、そこにも博士自身がいた。左を向くとそこにも同じ自分の姿があった。後を振返れば、ドアの裏側がやっぱり鏡で、そこに実物の五倍ほどもある大入道のような博士の、あっけに取られた顔が覗いていた。
イヤイヤ、こう書いたのでは本当でない。鏡は四方にあったばかりではないのだ。天井も一面の鏡であった。床も一面の鏡であった。そして、博士を取りまく壁は不規則な六角形になっていて、それが枠もなにもない鏡ばかりなのだ。つまり六角筒の内面が、少しの隙間もなくすっかり鏡で張りつめられ、その上下の隅々に電燈が取りつけてあるという、いとも不思議な魔法の部屋なのである。
しかも、それらの鏡は、必ずしも平面鏡ばかりではなかった。ある部分は先にも記したように、実物を五倍に見せる円形の凹面鏡になっていた。またある部分は、鏡の面が複雑な波形をしていて、人の姿を一丈に引き伸ばしたり、二尺に縮めたりして見せた。そして、それらの雑多の影が六角の各々の面に互に反射し合って、一人の姿が六人になり、十二人になり、二十四人になり、四十八人になり、じっと鏡の奥を覗くと、遙かの遙かの薄暗くなった彼方まで、恐らくは何百という影を重ねて映っているのだ。それを六倍すれば何千人、更にその上に、天井と床とが、また各々に反射し合い、方々の壁に影を投げるのである。
博士はそういう鏡の部屋というものを、想像したことはあった。しかし、これ程よく出来た鏡の箱に、ただ一人とじこめられたのは、全く初めての経験なのだ。世間を知りつくし、物に動ぜぬ法医学者も、このすさまじい光景には、理窟ぬきに、赤ん坊のような驚異を感じないではいられなかった。
博士が笑えば、千の顔が同時に笑うのだ。しかも、それらの中には、五倍の大入道の顔、胡瓜のような長っ細い顔、南瓜のように平べったい顔なども、幾十となく交っている。手を上げれば、同時に千人の手が上がり、歩けば同時に千人の足が動くのだ。
天井を見上げると、そこには逆立ちをした博士が、じっとこちらを睨みつけている。床を覗けば、そこにも足を上にしてぶら下っている博士が、下の方から見上げている。そして、それら二様の逆の姿が、無限の空にまで、奥底知れぬ六角の井戸の底まで、数限りもなく重なり合って、末は見通しも利かぬ闇となって消えているのだ。つまり、前後左右は勿論、上も下も無限の彼方に続いていて、まるで大空に投げ出されでもしたような、大地が消えてなくなったような、云うに云われぬ不安定の感じであった。
どちらを見ても、行き止りというものがなく、自分自身の姿が無限に続いているのである。この恐ろしい場所を逃れるためには、それらの何千という人々を、掻き分け押し分け、無限に走る外はないという、奇怪千万な錯覚が起るのだ。
博士はふと、こんな見世物を興行させて置くのは人道問題だと思った。博士のような思慮分別のある中年者でさえ、たまらない程の不安を感じるのだから、若し女子供がこの鏡部屋にとじこめられたなら、恐怖のために泣き出すに違いない。イヤ、泣き出すばかりでなく、中には気が違ってしまう者もあるかも知れない。
博士は嘗て何かの本で、人間を鏡の部屋にとじこめて発狂させた話を読んだことがあった。そして、それと関聯して、寄席の芸人が物真似をする、蝦蟇の膏売りの、滑稽なようでいて、どことなく物凄い妙な口上が、耳元に浮かんで来た。無神経な蝦蟇でさえ、鏡に取りかこまれた恐怖には、全身からタラーリタラーリと膏汗を流すではないか。
流石の宗像博士もこの恐怖の部屋には、そのまま佇んでいる気はしなかった。大急ぎで六角の鏡の面に触りながら、どこかに出口はないかと歩き廻った。すると、千人の同じ博士がグルグルと、大グラウンドでのマス・ゲームのように、卍巴となって歩き廻るのだ。
何という残酷な仕掛けだろう。入口のドアは閉まったまま開かないし、出口も見つからぬ。見物が気の違うまで閉じこめて置こうとでもいうのだろうか。
さい前ドアが素早く閉まったのには理由があったのだ。あのドアには、一人だけ中に入ると、あとから見物が入らぬよう、ある時間、押しても引いても開かなくなってしまう仕掛けがしてあるのだ。そして、一人ぼっちでこの魔の部屋の恐怖を味わせようという訳なのだ。
「小池君、こいつは気味が悪いよ。鏡の部屋なんだ。それに出口がどこにあるんだか分らない。そのドアをもう一度押してごらん」
博士は外の闇の中にいる小池助手に、大声に呼びかけた。
「どうしても開かないんです。さっきから押しつづけているんですけれど」
「小池君、君ここへ入っても驚いちゃいけないよ。僕は何も知らずに飛び込んだものだから、ひどく面喰ってしまった。どこもかも鏡ばかりなんだ。この部屋には僕と同じ奴が千人以上もウヨウヨしているんだぜ。そして、僕と同じように、今物を云っているんだ。ハハハハハハハハ、アア、僕が笑うと、奴らも口を開いて笑うんだ」
「ヘエ、気味が悪いですね。そして、出口が分らないのですか。この戸はどっか狂ったのじゃないでしょうか。入口へ戻って、人を呼んで来ましょうか」
「アッ、開いた。開いた。君、やっと鏡の壁が口を開いたよ。じゃ僕は先に出て待っているからね」
如何にも、六角形の一つの面が、機械仕掛でクルッと廻転して、人一人通り抜けられる程の隙間が出来た。その向う側は例によって、黒暗々の闇である。
博士はそこを出ようとして、躊躇した。若し小池助手が入って来たら、こんな不気味な部屋へ一人残して置かないで、一緒に向うへ出ようと考えたからである。
しかし、化物屋敷の考案者は、そこに抜かりがなかった。
「僕の方は開きませんよ。どうしたんだろう」
小池助手が入口のドアを、外からドンドンと叩く音がした。しかし、いっかな開きはしないのである。
仕方がないので、博士は先に鏡の部屋を出て、外の暗闇に入ったが、すると、今まで開いていた隙間が、カタンという音を立て、自然に塞がされてしまった。そして、殆んどそれと同時に、部屋の中から幽かな小池助手の声が聞えて来た。
「先生、どこにいらっしゃるのです。開きましたよ。ドアが開きましたよ」
「出口はここだ。しかし、自然に開くのを待つ外はないのだ。仕方がない、暫くそこに我慢していたまえ」
博士は今出たあたりの壁をコツコツと叩いて聞かせながら、大声に呶鳴るのであった。