鏡の魔術
中村捜査係長が制服私服合せて十二名の部下を引連れ、三台の自動車を飛ばして駈けつけたのは、それから二十分程のちであった。
係長は宗像博士から委細を聞き取ると、敏速に兇賊逮捕の陣容を整えた。半数の警官は賊がテントを潜って逃走するのを防ぐ為に、小屋掛けの四方の見張りに立て、残る半数を二隊に分け、小屋の入口と出口とから、綿密な捜査をしながら中心地点に進ませることにした。
化物屋敷全体を薄暗くしている天井の黒布は、小屋の者に命じて、直ちに取りはずさせることにしたので、見る見る陰鬱な小屋の中が明るくなって行った。それにつれて、場内の魑魅魍魎は、昼間の化物となって、到る所に滑稽なむくろを曝しはじめた。
竹藪の迷路も、行き止りの袋小路が全部切り払われ、どこを通っても出口に達することができるようになった。警官隊と十数名の小屋の若い者とが、隊伍を組んで、切り開かれた白昼の藪の間を進んで行った。
裏口から入った一隊は、無残人形の場面を、一つずつ綿密に捜索しながら、前進したが、天井の黒布が取り払われて見ると、どの場面もいたずらに毒々しく醜怪なばかりで、凄味など殆んど感じられなかった。
裏口から三つ目の舞台は、例の轢死女の場面であったが、地中に身を潜めた生ける生首は、どこへ逃げ去ったのか、影もなく、その首の生えていた部分に、ポッカリと黒い穴があいていた。
「オイ、あの奥に何だかいるようだぜ」
一人の警官が同僚を顧みて囁いた。指さすのを見ると、そこには例の模造赤煉瓦のトンネルが真黒な口を開いているのだ。
天井から光が射すとは云っても、トンネルの中は真暗だし、その辺一体は、竹藪の茂みになっていて、何となく陰気である。
三人の警官、それに小屋の若者四人、七人の同勢が、手をつながんばかりにして、オズオズと柵を乗り越え、汽車の線路を伝って、転がっている人形の手や足を蹴ちらしながら、トンネルの口に向って近よって行った。
「このトンネルは一間ばかりで行き止りになっているんですから、どこにも逃げ道はありやしませんよ」
若者が警官達に囁く。
やがて、人々はトンネルの前二間程に近づくと、暗い穴の中を覗き込んだ。
トンネルの内部は、すっかり黒い塗料で塗りつぶしてあるのだが、その行き当りの壁の中に、細い二つの目が光っていた。よく見ると、壁と同じ色をした影法師のようなものが、そこに突立っているのだ。
それを見ると、人々は思わずギョッと立止った。
「危いッ、ピストルを持っているぞッ」
人々のひるむ前に、黒い怪物は、浮き出すように前進して来た。右手には油断なくピストルを構えながら、クックックッと例の不気味な笑い声を立てながら。
トンネルを出ると、大胆不敵にも、ジリジリと警官の方へにじり寄って来る。七人の方が却って押され気味である。
怪物の足が線路を越えた。今度は柵の方へと、蟹のように横歩きを始める。ピストルは七人の真中に狙いを定めたままだ。
アッ、柵を越えた。越えたかと思うと、クルリとうしろ向きになった。そして、通路を人なき方へと、矢のように走り出した。
「ウヌ、待てッ」
「逃がすもんか、畜生」
かけ声だけは勇ましく、逃げる一人を追う七人、すさまじい追っ駈けが始まった。
「クックックッ……」
怪物は走りながらも、まだ嘲笑をやめなかった。
無残人形の幾場面を過ぎて、怪物は両側を黒布で張った細い通路へ飛び込んで行った。その正面には、例の鏡の部屋があるのだ。
その通路も、天井の蔽いが取去ってあるので、怪物の躍るような黒い姿がよく見える。彼はそこを一息に駈け抜けて、行き当りの黒板塀のドアを引きあけ、とうとう鏡の部屋に辷り込んだ。
七人の追手は忽ちドアの前に殺到したが、そこで又立ちすくんでしまった。ドアが細目に開いて、怪物の白い目がじっとこちらを睨みつけていたからだ。イヤ、目だけではない。ピストルの筒口が、今にも火を吐くぞとばかり、不気味に覗いていたからだ。
「向うの出口から廻って、はさみ撃ちにしたらどうでしょう」
一人の若者が囁き声で、妙案を持出した。
「よし、それじゃ、君は向うへ廻って、あちらにいる警官に、この事を伝えてくれ。出口の方を固めてくれるようにね」
これも惶しい囁き声の指図だ。若者は通路の壁を押し破って、鏡の部屋のうしろ側へ飛び出して行った。
愈々怪物は袋の鼠となった。彼は今、何も知らないで、戸の隙間から警官達を威嚇しているけれど、やがて背後の入口から、別の警官隊が殺到するのだ。腹背に敵を受けては、いかな兇賊も運の尽きに違いない。若し万一、どうかしてこの鏡の部屋は逃げ出すことが出来たとしても、小屋の外には六人の警官が見張りをしているばかりか、事件を聞きつけて集った弥次馬の大群が、テントのまわりをグルッと遠巻きにして見物しているのだ。その中を、どう逃げ終せることが出来るものか。
あとに残った六人の追手は、じっとピストルの筒口を睨みつけながら、息を殺して時の来るのを待ち構えていた。
「クックックッ……」怪物は又笑い出した。アア、何も知らないで、呑気らしく笑っている。
五秒、十秒、十五秒……追手達の腋の下から冷い汗がジリジリと流れた。突然、鏡の部屋の中に物音がした。何者かが歩き廻っているのだ。咳払いの音が聞える。
しかし、賊のピストルはこちらを狙ったまま、少しも動かない。どうしたのかしら。オオ、今にも格闘が始まるのではないか。敵も味方も鏡に映る千人の姿となって、何千人の大乱闘が演じられるのではないか。
手に汗を握って待ち構える人々の前に、鏡の部屋のドアが、静かに開き始めた。オヤッ、おかしいぞ。怪物はやっぱりピストルを構えたままだ。では、早くも計略を悟って、逆にあいつの方から打って出る積りかしら。
人々はギョッとして、思わずあとじさりを始めた。
ドアは段々大きく開いて行く。黒い怪物め、愈々飛び出して来るんだな。逃げ腰になって、じっと見つめている一同の前に、遂にドアはすっかり開け放された。
すると、オオ、これはどうした事だ。そこに立っていたのは、敵ではなくて味方であった。味方も味方、当の怪物の発見者の宗像博士その人であった。
「オヤ、あなた方何をしているんです。あいつはどうしたのですか」
博士の言葉に、警官達は開いた口が塞がらなかった。
「オオ、宗像先生、あなたはその部屋で、曲者をごらんにならなかったのですか。つい今し方まで、そのドアの隙間から、我々にピストルを突きつけていたんですぜ」
「僕もここにあいつが隠れていると聞いたものだから、はさみ撃ちにする積りで、入って来たのだが、入って見ると誰もいないのです。ただ、このピストルがドアの把手にぶら下っていたばかりでね」
博士はそういいながら、紐で結びつけたピストルを取り上げて、一同に示した。
「あなた方は、このピストルの筒口が覗いているのを見て、あいつ自身が、ここにいるのだという錯覚を起していたのですよ。あいつはピストルをここにぶら下げて、丁度あなた方の方に筒口が向くようにして置いて、素早く逃げてしまったのです」
人々は余りのことに、それに答える力もなく、呆然として博士の顔を見つめていた。
「しかし、おかしい。僕はもうさい前から、向うの戸口の外にいたんですが、誰もここから逃げ出すものを見かけなかった。ひょっとしたら、鏡の壁に何か抜け穴でも出来ているのじゃないかと思うくらいです」
怪物の奇怪な消失に、又改めて大捜索が繰返された。人の隠れそうな場所は、悉く打毀し、迷路の竹藪もすっかり倒してしまって、隅から隅まで、何度となく探し廻った。
しかし、遂に黒い怪物は、どこにも姿を現わさなかった。と云って、テントの外へ逃げ出さなかったことは、見張りの六人の警官をはじめ、まわりを囲む群集が、何よりの証人であった。
宗像博士の提案によって、鏡の部屋が取り毀され、大鏡が一枚一枚壁からはずされて行った。しかし、そのあとには、どんな抜け道も、どんな隠れ場所も発見されなかった。
あの不気味な鏡の部屋は、一人を千人にして見せるばかりでなくて、人間を全く影も形もないように吸い取ってしまう魔力を持っていたのであろうか。
人々は、六角の鏡の部屋が、奇術師の魔法の箱のように、そこへ入った人間を、先ず粉々に打ちくだき、その目にも見えぬ破片を、六方から、サーッと吸い取って行く光景を幻想して、ゾーッと肌寒くなる思いをしたのであった。