迷路の殺人
それから間もなくの出来事である。
薄暗い竹藪の、とある細道を、黒い影法師のようなものが、フラフラと歩いていた。
よく見ると、そいつは、ぴったりと身についた真黒のシャツを着、真黒のズボン下を穿き、黒い靴下、黒い手袋、頭も顔もすっぽりと黒布で包んだ、全身黒一色の怪物であった。
ただ、黒布の目の部分だけが、細くくり抜いてあって、その奥から、鋭い両眼が要心深くあたりを見廻している。無論何者とも判断がつかぬけれど、若しこれが妙子さんを誘拐した犯人の一人とすれば、あの背の高い方の、ガーゼの眼帯を当てていた男に違いない。
黒い怪物は、宗像博士が警官隊を呼ぶために電話をかけに行ったことも、又、小池助手の指図で、十人余りの小屋の者が、迷路の要所要所に、捜索の網の目を張っていることも、よく知っているに違いない。
だが、彼は少しも慌てている様子がない。さも自信ありげに、ゆっくりと歩いている。例のクックックッという幽かな笑い声さえ立てながら。
竹藪の向うのあちこちでは、捜索の人達がガサガサと物音を立てながら、右往左往しているのが、手に取るように聞える。竹の葉をかき分ける音が、前からも後からも、右からも左からも聞えて来る。黒い怪物は、今や四方から包囲された形だ。しかも、その包囲陣は徐々に彼の身辺に縮められているのだ。
怪物は、しかし、まだせせら笑っていた。冗談らしくピョイピョイと飛ぶような恰好をしたりして、暗の中を呑気らしく歩いていた。
角を曲ると、頭の上に白いものがぶら下っていた。例の首吊り女の幽霊である。
怪物はそれを見上げて、又クックックッとせせら笑った。黒布で包んだ顔の中から、二つの細い目が、何か陰気なけだものの目のように光っている。この黒い海坊主を見ては、幽霊の方で身震いするかも知れない。
怪物がそのまま歩き出すと、からくり仕掛けの幽霊は、そのあとを追うように、スーッと舞い下って来た。そして、普通の見物にするのと同じ恰好で、うしろから、彼の黒シャツの肩にしがみついた。
怪物は予期していたと見えて、少しも驚かなかった。又妙な笑い声を立てながら、そのか細い幽霊人形の手を払いのけようとした。
だが、どうした事か、幽霊の両手は、いくらふりほどいても、黒い怪物の肩から離れなかった。もがけばもがく程、その手はグングン彼の頸をしめつけて来た。
それは実に異様な光景であった。細い両眼の外は黒一色の影法師の背中に、長い髪の毛をふり乱した、白衣の青ざめた女幽霊が、負ぶさるようにしがみついているのだ。暗闇の竹藪の中では、それが滑稽に見えるどころか、何ともえたいの知れぬ奇怪なものに感じられた。現実の出来事というよりは、悪夢の中の突拍子もない光景であった。
痩せ衰えた女幽霊の余りの力強さに、流石の怪物もギョッとしたらしく、今度は本気になって、力まかせにその手をふりほどこうとあせった。
だが、幽霊の両手は、愈々力をこめて、頸をしめつけて来る。呼吸もとまれとしめつけて来る。
「き、貴様ッ……」
怪物は遂に悲鳴を上げた。うしろにしがみついている奴が、人形ではなくて、生きた人間であることを悟ったのだ。幽霊に化けて、彼の通りかかるのを待ち受けていた、追手の一人であることを悟ったのだ。
恐ろしい格闘が始まった。女幽霊と海坊主との、死もの狂いの組打である。
だが、戦いはあっけなく終りをつげた。頸をしめつけられて、力の弱っていた怪物は、たちまち幽霊の為に組み伏せられてしまった。
「オーイ、捕えたぞ。ここだ、ここだ、早く来てくれ」
幽霊が小池助手の声で呶鳴った。
ただ追い廻していたのでは、相手は真黒な保護色の怪物だから、急に捉える見込みはないと悟って、咄嗟の機智、彼は首吊り幽霊の衣裳をつけ、長髪の鬘を冠って、人形に化けて敵の虚を突いたのであった。
小池助手は得意であった。博士の留守の間に、早くも怪物を捉えてしまったのだ。残虐飽くなき復讐魔を組み敷いてしまったのだ。それにしても、見かけ程にもない弱い奴だ。一体どんな顔をしているのだろう。
彼はいきなり覆面の黒布に手をかけて、ビリビリと引き破った。顎が、口が、鼻が、そして目が、次々と現われて来た。薄闇の中とはいえ、接近しているので顔容が分らぬ程ではない。彼は怪物の顔を見た。はっきりとその素顔を見たのだ。
一目見るや否や、小池助手の口から、何とも云えぬ恐ろしい叫び声がほとばしった。その調子には、極度の驚きと、何かしら世にも悲痛な響きが籠っていた。
「ウヌ、俺の顔を見たな」
黒い怪物がうめくように云って、組みしかれたまま、クネクネと身体を動かしたかと思うと、闇の中にパッと青い光が閃めいて、バクッと物を裂くような音がした。
それと同時に、幽霊の胸から、真赤な血のりがポトポトと滴り落ちていた。彼は顔の前に垂れ下った長い髪の毛を振り乱して、ウーンとのけぞったが、そのまま縡れて、パッタリうしろに倒れてしまった。
組みしかれていた黒い怪物は、引裂かれた黒布を元通り顔の前に垂れると、ゆっくりと起き上った。右手には今火を吐いたばかりの小型のピストルを握っている。
「クッ、クッ、クッ……」
彼は又あの奇妙な笑い声を立てた。そして、可哀想な小池助手の死体を踏み越え、素早く竹藪の向うに姿を隠してしまった。
それと引違いに、反対の方角から、二人の小屋の者が、息せききって駈けつけて来た。小池助手の恐ろしい叫び声と銃声を聞きつけたからである。
彼等はそこに女幽霊の転がっているのを見た。不思議なことに、その幽霊の裾からは、二本の足がニューッと突き出していた。胸からは白衣を染めて真赤な血が流れ出していた。
暫くは何が何だか分らず、呆然として立ちつくしていたが、やがて、一人がそれと気附いて、幽霊の長髪をかき分けて見た。
「オイ、これはさっきの探偵さんだぜ。幽霊に化けて曲者を待伏せしていたのかも知れない。アア、もう脈が止まっている。あいつにやられたんだ。あいつはピストルを持っているんだぜ」
二人は恐怖に耐えぬもののように、竹藪の重なり合った闇の中を見廻した。
「それは一体どうしたというのです」
見上げると、そこに宗像博士が立っていた。
「あなたのお連れの方が、曲者の為に撃たれたのです」
「エッ、小池君が?」
博士は咄嗟にそれと察したのか、転がっている幽霊の側に跪いた。
「オオ、小池君、この様子では、あいつを見つけて組みついて行ったんだね。そして、こんな目に会ってしまったんだね。
アア、もう駄目だ、心臓の真中をやられている。よしッ、小池君、この仇はきっと取ってやるよ。君と木島君と二人の仇は俺が必ず討って見せるよ」
博士は両眼にキラキラと涙の玉を浮べて、小池助手の屍の前に静かに脱帽するのであった。