きみょうなうたがい
夜ふけでしたが、小林少年は、自動車をとばしてやってきました。そして淡谷さんと相談したうえ、宝石は、銀行へあずけないで、このまま書斎の金庫の中におくこと、書斎には淡谷さんをはじめ、うちの人や小林少年がたえず見はりをつづけること、そのほかに、警視庁の中村警部にたのんで、三人の刑事に来てもらい、淡谷邸の内外を見はってもらうことなどをとりきめました。
さて、そのあくる日は、朝から小林少年と三人の刑事がやってきて、小林君は、淡谷さんとふたりで、金庫の番をし、刑事たちは、廊下や庭を、たえず歩きまわることになりました。
そういうさわぎですから、怪人四十面相が、宝石をぬすみ出しにくるということは、うちじゅうの人にしれわたりました。スミ子ちゃんも、むろんそれを知っているので、学校へいっても、先生のお話が耳にはいらないほどでした。
主人の淡谷さんは、その日は会社へも出ないで、書斎にがんばることにしましたが、スミ子ちゃんは学校へいきましたし、スミ子ちゃんのにいさんの淡谷一郎君も、会社へ出かけていきました。
淡谷一郎君は二十五歳で、まだ結婚まえの青年でした。大学を出るとおとうさんの会社へはいり、ふつうの社員として、毎日かよっているのです。スミ子ちゃんには、このにいさんのほかに、きょうだいはありませんでした。
スミ子ちゃんは、午後三時半ごろ学校から帰ると、おとうさんと小林少年のがんばっている書斎へいってみたり、茶の間のおかあさんのそばに、すわってみたり、刑事たちが、うろうろしている廊下を歩きまわってみたり、ときどき、げんかんのホールに出て、早くにいさんが帰らないかしらと待ちうけてみたり、そわそわとして、おちつかないのでした。
五時すごしすぎ、げんかんのドアの音がして、待ちかねていたにいさんが、会社から帰ってきました。
スミ子ちゃんは、ホールへかけ出していってにいさんをむかえ、にいさんが、くつをぬいでホールへあがってくるのを待って、いつものあいさつをしました。
スミ子ちゃんは、右手の人さし指をまっすぐに立てて、自分の鼻の前にくっつけ、右の目を、ぱち、ぱち、ぱちと、三度またたいて見せました。
これは、ふたりだけが知っている暗号通信みたいなもので、こういう形で、仲よしのしょうこを見せることになっていました。
そのあいずをすると、いつもなら、にいさんのほうでも、同じようなことをして見せるはずでした。同じといっても、すこしちがいます。スミ子ちゃんが、人さし指を立てて、鼻にくっつけたときには、にいさんのほうは、人さし指をよこにして、鼻にくっつけ、ぱち、ぱち、ぱちと、三度またたきをすることになっていました。もし、スミ子ちゃんが、人さし指をよこにして、鼻にくっつけたら、にいさんのほうは、たてにするというきまりです。
ところがきょうは、スミ子ちゃんが同じことを二度もくりかえしたのに、にいさんはなにもしないで、だまったまま二階の自分の部屋へあがっていくのです。皮の書類かばんを右手にさげたまま、あがっていくのです。
これも、いつもとちがっていました。いつもは、スミ子ちゃんがかばんを持って、にいさんについて、二階にあがることになっていました。そして、そのおれいに、机のひき出しにしまってあるチョコレートや、キャラメルを、スミ子ちゃんにくれるのです。
ところが、にいさんは、かばんをスミ子ちゃんにわたそうともしなければ、部屋へはいっても、おかしのしまってあるひき出しを、あけようともしません。スミ子ちゃんが、机のそばに立っても、へんな顔をして、じろじろとながめるばかりです。
にいさんは、四十面相がやってくるというので、気がおちつかなくて、いつものやりかたを、わすれてしまったのでしょうか。
「どうして、かばん持たしてくんないの? そしていつものごほうびは?」
スミ子ちゃんが、すねたようにいいますと、にいさんはへんな顔をして、
「いつものごほうびだって?」
と聞きかえしました。ひき出しのおかしのことまで、わすれてしまったのでしょうか。
「右の三つめのひき出しよ。きょうはチョコレートがいいわ。」
スミ子ちゃんがいいますと、にいさんは、やっと思い出したように、
「ああ、そうだったね。」
といって、そのひき出しをあけ、チョコレートのつつみを一つ取りだすと、
「はい、ごほうび。」
と、手わたしてくれるのでした。
スミ子ちゃんは、
「ありがとう。」
といって、そのままにいさんの部屋を出ましたが、階段をおりると、廊下のまん中で立ちどまってしまいました。
なんだか、へんな気持ちです。わすれようとしてもわすれられない、いつものしきたりを、にいさんは、けろりとわすれていたのです。スミ子ちゃんが教えるまでは、おかしのはいっているひき出しさえ知らなかったのです。これは、どうしたことでしょう。いくら心配ごとがあったって、そんなことまでわすれるというのは、どうもおかしいではありませんか。
そのとき、階段に、とんとんと足音がして、にいさんがおりてきました。その音をきくと、スミ子ちゃんは、ギョッとしたように、階段のうしろに身をかくしました。そして、にいさんが、おとうさんたちのいる書斎へはいっていくのを、ソッとのぞいていました。
なぜ、そんなへんなまねをしたのでしょう。スミ子ちゃんは、自分でも、わけがわかりませんでした。
階段のかげから、書斎のほうへ行くにいさんのうしろすがたを見ていますと、
「あれが、ほんとうに一郎にいさんかしら?」
と、うたがわしくなってきました。
あたまの中に、にいさんのすがたと、あの恐ろしいこうもり男のすがたとが、二重うつしのようにかさなりあって、ボウッと浮かんでくるのです。
「まさか、そんなことがあるはずはない。いくら、四十面相が変装の名人だって、あんなに、にいさんとそっくりに化けられるはずはないわ。でも、ひょっとしたら……。」
スミ子ちゃんは、この恐ろしい考えに、顔の血がスウッとひいていくような気がしました。まっ青になっていたにちがいありません。
スミ子ちゃんは廊下を、あっちへいったりこっちへいったり、歩きはじめました。どうしていいのか、決心がつかなかったからです。
「おとうさんや、おかあさんに知らせたって、またノイローゼだといって、とりあってくださらないにきまっている。ああ、そうだ。小林さんに知らせよう。小林さんなら、きっと、あたしの気持ちをわかってくださるわ。」
でも、書斎へいって、小林少年を呼びだすわけにはいきません。そこには、あの恐ろしい一郎にいさんもいるからです。もし、あれが四十面相の変装だとしたら、すぐに感づかれるにきまっているからです。
こんなことをいろいろ考えながら、廊下をうろうろしていますと、うまいぐあいに、書斎から小林少年が出てきました。お手洗いへいくのかもしれません。
スミ子ちゃんは、廊下に待ちうけていて、ソッと小林少年を呼びとめました。そして、小林君の耳に口をあてて、なにか、ぼそぼそとささやくのでした。
小林君は、それを聞くと、まゆをしかめてしばらくだまっていましたが、
「きみの考えが、あたっているかもしれないね。ぼくは、あいつには、たびたびだまされたことがあるので、あいつがどんな魔法つかいだかということを、よく知っている。変装は自由自在なんだからね。
よしッ、ぼく、ちょっと出かけてくるよ。あいつがもし四十面相だとしたら、そのうらをかいてやるんだ。じき帰ってくるよ。おとうさんやおかあさんには、なにも、話さないほうがいい。きみは、しらん顔をしているんだ。わかったね。」
小林少年は、そうささやいておいて、そっと、裏口からどこかへ出かけていくのでした。