探偵犬
そのあくる日の朝、明智探偵の少年助手、小林芳雄君は、自動車に一ぴきの大きなシェパード種の犬を乗せて、八幡神社の前につきました。
この犬は『五郎』という名の探偵犬でした。人間にはわからないようなかすかなにおいをかぎつけて、犯人のあとを追うのがとくいなのです。これは明智探偵の友だちが、だいじにしている犬で、なにかの時には、その人から借りることになっていました。きょうも小林君は、その探偵犬をかりだして、自動車に乗せて、ここへやってきたのです。
八幡神社の前で自動車をとめさせると、小林少年は、『五郎』をつれて車をおりました。そして、ゆうべ、四十面相の自動車が、とまっていたところへくると、小林君は、手に持っていた新聞紙づつみをひらきました。その中には、黒いコールタールをしみこませたぬのきれが、まるめてはいっていたのです。
小林君は、それをシェパードの『五郎』の鼻の先に持っていって、よくにおいをかがせました。
「このにおいだよ。わかったな。さあ、このにおいのあとをつけるんだ。」
そういって犬の首をたたき、長いつなのはしをにぎって、『五郎』が、思うままに歩けるようにしてやりました。
すると『五郎』は、しばらく、そのへんの地面を、くんくん、かぎ回っていましたが、やがて、かすかなにおいを、かぎわけたらしく、うううと一声うなると、いきなり、かけだしそうにしました。
小林君は、それを見ると、長いつなのはしをにぎったまま、自動車の運転席に乗りこみ、運転手に、『五郎』のいく方へついていくようにたのむのでした。
『五郎』は、ときどき地面に鼻をつけて、においをかぎながら走っていきます。自動車は、そのあとを追って、ゆっくり進むのです。
いったい、これは、どういうわけなのでしょう?
よく目をさだめて、犬の走っていく地面をごらんください。地面の土の上に、かすかに黒い糸のような線が、ズウッと、むこうの方までつづいているではありませんか。
その黒い線に、においがあるらしいのです。『五郎』は、それに鼻を近づけては走っていきます。
この黒い糸のようなものは、なんでしょうか?
それはこういうわけなのです。
ゆうべ、四十面相の自動車の下から小さな男がはい出したことは、まえに書いたとおりですが、その小男は、じつは小林少年だったのです。
小林君は、コールタールのいっぱいはいったブリキかんを持って、自動車の下にもぐりこみ、そのかんを、車体の下にくくりつけたのです。
ブリキかんのそこに、はりで小さな穴があけてありました。そこから、コールタールが、糸のようにほそくなって、地面にたれるのです。
『五郎』が追っていく黒い線は、そのコールタールのたれたものでした。
小林君は、朝はやくやってきましたが、それでも、車がとおったり、人が歩いたりして、コールタールの線は、ところどころとぎれて、目で見たのではわからないようになっていました。しかしそんなところでも、シェパード犬の鼻は、ちゃんと、においをかぎつけることができます。ですから、どうしても『五郎』をつれてくるひつようがあったのです。
自動車で尾行しては、あいてに気づかれそうなときには、小林君は、よくこの方法をもちいました。ずっとまえの四十面相の事件のときにも、これをつかったことがあるのです。
針でついたような小さな穴ですから、大きなかんのコールタールは、なかなかなくなりません。三十分や四十分は、地面に糸をひきつづけることができます。
『五郎』は町かどを右にまがり、左にまがりして、どこまでも走っていきます。さいわい、さびしい町ばかりなので、においが消えてしまって方角にまようようなこともありません。
自動車は、もう、三十分ほども走りました。犬について、ゆっくり走るのですから、時間がかかります。
「おや、へんだぞ。これじゃあ、あともどりだよ。町はちがうけれども、淡谷さんのうちの方へ、もどっている。どうしたんだろう。ああ、わかった。四十面相のやつ、遠いところへいくように見せかけて、まわり道をしたのかもしれない。あいつのすみかは、あんがい、近いところにあるかもしれないぞ。」
小林君は、心の中で、そんなことをつぶやいていました。
ほんとうにそうです。『五郎』は、だんだん、淡谷さんのうちの近くへもどっていくのです。まさか、べつのコールタールがこぼれていて、道をまちがえたわけではないでしょう。
じつにふしぎです。『五郎』は、いよいよ淡谷さんのやしきへ、近づいてきます。そして、あれよあれよと思うまに、とうとう、淡谷さんの門の前に、ついてしまったではありませんか。
『五郎』は、その門の中へ、ぐんぐんはいっていこうとします。しかたがないので、小林君は、車からおりて、つなのはしを持って、『五郎』のあとからついていきました。
門をはいり、たてもののよこをまわって、庭に出ました。そして、庭の木のあいだをとおって、一本の大きなしいの木の下までくると、そこで『五郎』は、ぴったり、とまってしまいました。
見ると、そのしいの木の根もとに、四十センチほどの、四角なブリキかんがおいてあるではありませんか。
小林君は、「アッ。」と声をたてて、かけよりました。
やっぱりそうです。ゆうべ、四十面相の自動車の下にくくりつけた、あのコールタールのかんなのです。
そのかんの上に、白い西洋ふうとうをのせて、赤いリボンでむすんでありました。
小林君は、いそいでそのふうとうを手にとり、ふうをきりますと、中から、タイプライター用紙が出てきました。それに、こんな文句が書いてあったのです。
それを読んだ小林少年は、泣きだしそうな顔になりました。
それにしても、四十面相は、なんという、ひにくなやつでしょう。どこか、えだ道になっているところで、ほんとうのコールタールの糸を、ほりおこして、すっかりにおいをなくしてしまい、べつのほうの道に、コールタールをたらしながら、淡谷さんの庭まで、にせのあとをつけたのです。きっと、夕べのうちにやっておいたのにちがいありません。
秘密にしておくわけにもいきませんので、小林君は、このことを、淡谷さんに知らせました。すると、淡谷さんは、庭まで出てきて、ブリキかんを見ました。スミ子ちゃんも、自分に関係のあることですから、おとうさんのあとからついてきて、こわごわ、ブリキかんをながめるのでした。
「ああ、これで、あいつが大笑いをしたわけがわかった。あのとき部下のやつが、このかんに気がついて知らせにきたのだ。そして、四十面相は、こういうしかえしのやりかたを思いついて、はらをかかえて笑ったのだ。わたしは、なぜあんなに笑うのかと、ふしぎに思ったが、これだったのだな。」
淡谷さんは、四十面相の手紙を読んで、やっと、そこへ気がつきました。
それから、小林少年は、応接間にとおされ、お茶とおかしをごちそうになって、すごすごと、明智探偵事務所へ引きかえすのでした。