蛭田博士
ドアの中をのぞいてみますと、その部屋が思ったよりずっと広くて、たいへんりっぱなのに、まずびっくりしてしまいました。
部屋の四ほうのかべは、高い天井までとどく書だなになっていて、金文字の洋書が、ぎっしりつまっています。それから、その書だなの四つのすみには、おとなほどの背の高さのいかめしい石膏像が、ニョキニョキとつっ立っているのです。正面の右手に立っているのは、にいさんの西洋史の本のさし絵で見た、ギリシャの詩人ソフォクレスの彫刻によく似ています。あとの三人も、きっとソフォクレスにおとらない、昔の偉い人たちの像でしょうが、泰二君にはよくわかりませんでした。
部屋の正面には、書だなを背景にして、長さ二メートルもありそうな、大きな机がすえてあります。足にいちめんに彫刻のある、茶色にくろずんだ、見たこともないようなりっぱな机です。その表面は、まるで鏡のように光っていて、うしろの書だながありありとうつっているのです。
その机の向こうがわに、みょうな人物が腰をかけて、机の上に顔をふせ、何かしきりと書きものをしています。こちらを向いている頭の毛が、なかば白くなっているのを見ますと、相当の年配の人にちがいありません。むろん、さきほどの怪老人とは、似ても似つかぬりっぱな人物です。身には、西洋の衣とでもいうような、ダブダブした将校マントのようなものを着ています。
泰二君はそれを見ると、ホッと安堵のため息をつきました。こんなりっぱな人ならば、まさか、子どもをひどいめにあわせるようなことはあるまいと感じたからです。そこで、思いきって、声をかけてみました。
「おじさん、おじさんはこの家のご主人ですか。」
書きものをしていた人は、それを聞くと、しずかに顔をあげて、じっと泰二君を見つめたまま、ニヤニヤとみょうな笑い方をしました。そこで、その人の顔がわかったのですが、半白の長い髪をふさふさとしたオールバックにして、半白のピンとはねた口ひげと、半白の三角に刈ったあごひげをたくわえ、黒いふちの大きなロイドめがねをかけて、その中から、よく光る大きな目が、ジロリとこちらをにらんでいるのです。
ただニヤニヤ笑っているばかりで、返事をしてくれないものですから、泰二君は、もう一度、同じことばをくりかえしました。
すると、その人は、腹の底から出てくるような太い声で、
「ウン、わしが主人じゃよ。まあ、こちらへおいで。」といいながら、右手を机の上にのばして、まるで犬でも呼ぶように、人さし指で「来い来い。」という形をして見せるのです。
なんだかうすきみの悪い、へんなおじさんだと思いましたが、いまさら逃げだすわけにもいかず、いわれるままにツカツカと部屋の中へはいっていって、鏡のように光る大机の前に立ちました。
「おじさん、ぼく、だまってあなたの家へはいってきて、ごめんなさいね。さっき、あやしい乞食のじいさんがあちらの窓からしのびこむのを見たんです。ぼく、泥棒かもしれないと思って、玄関の呼びりんをおしたんだけれど、だれも出てこないもんだから、そのじいさんのあとをつけて、同じ窓からはいってしまったんです。……ぼく、相川泰二っていうんです。」泰二君が、やっとそれだけいいますと、奇妙な人物は、やっぱりニヤニヤ笑いながら、
「きみが相川泰二君ということはよく知っている。わしはきみを待っていたのじゃからね。」と、いよいよきみの悪いことをいうのです。
しかし泰二君は、さいぜんの怪老人のことが気になって、相手のみょうなことばを、うたがっているよゆうがありませんでした。
「おじさん、そのあやしい乞食じいさんは、まだ、この家の中のどこかにかくれているんですよ。きっと泥棒です。早くさがしてください。」
「ハハハ……、あのじいさんのことなら、心配せんでもいい。ちゃんとこの部屋の中にいるのじゃ。」
「エッ、この部屋に?」
泰二君はびっくりして、キョロキョロとあたりを見まわしましたが、主人のほかには、人のけはいもないのです。このみょうな人物は、いったい何をいっているのでしょう。
「だれもいやしないじゃありませんか。」泰二君は、ふしぎそうに主人の顔を見つめました。
「いないことはない。ほら、そこをごらん。そこにちゃんといるじゃないか。」
指さされてうしろをふりかえりますと、書だなのすみの、一つの石膏像の足もとに、きたならしい洋服がぬぎすててあるのが目にはいりました。洋服ばかりではありません。一足のやぶれ靴と、それから、しらがのかつらのようなもの、つけひげのようなものまで、そこに投げすててあります。
泰二君は、それらのものをながめているうちに、さっきの怪老人の着ていた洋服、はいていた靴、それから、しらが頭、あの白ひげにそっくりであることに気づいて、あっけにとられてしまいました。いったいこれはどうしたというわけでしょう。
「ハハハ……。わかったかね。あの乞食じじいは、このわしだったのさ。たった今、その変装をぬいで、もとのわしにかえったばかりじゃよ。」
泰二君はギョッとして、思わず二、三歩あとじさりをしました。
「ハハハ……、びっくりしているね、どうじゃ、わしの変装はうまいものだろう。」
「おじさん、あなたはいったい、だれですッ。」泰二君は、いざといえば、逃げだす身がまえをしながら、するどくたずねました。
「ハハハ……、わしの名が知りたいのか。わしは蛭田博士、医学博士じゃ。さっきもいうとおり、この家の主人じゃよ。」
「では、なぜ、あんなじいさんに変装して、窓からしのびこんだりなんかしたんです。主人が、自分の家へ、窓からはいるなんて、へんじゃありませんか。」
「へんかもしれないがね。それには、わけがあるのだよ。じつをいうと、だれにも知られないように、きみをここまで呼びよせたかったんじゃ。わかったかね。」
「ぼくを呼びよせるんですって。それならば、あんなまねをしないでも、ぼくの家へそういってくださればよかったじゃありませんか。」
「それが、そうはできないわけがあるんじゃ。今にわかる。今にわかる。ハハハ……、きみはなかなか用心ぶかい、かしこい子どもじゃからね。うかつに手出しをしてはあぶないからじゃよ。計略でおびきよせなければ。」
「じゃあ、じいさんが地面に書いたしるしも、ぼくをここへ来させるためだったんですか。」
「そうとも、そうとも。きみは少年探偵じゃからね。ああすれば、だれにもいわないで、ソッとついてくるにちがいないと思ったのさ。うかつなことをして、泣いたりわめいたりされるよりは、少し手数がかかっても、ああいう方法をとったほうが、てっとり早くて、安全だからね。」
聞いているうちに、蛭田博士とやらいう人物のおそろしいたくらみが、だんだん、はっきりしてきました。博士は、もっとも安全な方法によって、少しの抵抗もうけず、まんまと泰二少年を誘かいしたのでした。
「じゃあ、あの人形も……。」
「そうじゃ。やっとわかってきたようじゃね。むろんあれも、きみを部屋の中へおびきよせるための奇抜な手だてだったのさ。きみは義侠心にとんだ子どもじゃからね。まさかあれを見すてて、立ちさってしまうようなことはあるまいと思ったが、案のじょう、あの娘を助けようとして、勇士のようにとびこんできた。感心な少年じゃよ、きみは。」蛭田博士は、さもとくいらしく、舌なめずりをして説明するのでした。
「すると、きみの知らぬまに、窓のよろい戸がしまってしまった。むろん、わしがしめたのじゃ。この家にはいろいろな機械じかけがあってね。ボタンひとつおせば、どんなことでもできるのじゃよ。そこで、きみはまんまと、わしのとりこになったというわけさ。もう、泣こうがわめこうが、世間に聞こえる気づかいはない。さて、窓がしまったとなると、きみは、こちらへやってくるほかに道はないのじゃ。わしはここで、じっと、それを待っていさえすればよかったのさ。
わしは、ごく自然に、きみがここへはいってくるように仕向けたばかりで、きみをさらったわけでもなければ、手紙や電話でおびきよせたわけでもない。また、きみ自身さえ、わしが何者か知らぬくらいじゃから、きみのおとうさんやおかあさんが、わしというものを知っているはずはない。つまり、きみがこの家へ来たということは、あの老人とわしのほかには、だれも知らぬのじゃ。ところがあの老人は、すなわちこのわしじゃから、広い世界に、きみがここへ来たことを知っているのは、わしのほかにはひとりもないのじゃ。わかったかね。
だから、もしきみのおとうさんが、警察にたのんで、きみのゆくえを捜索したところで、けっしてわかるはずはない。わしのほうで少しもむりをしていないのじゃから、手がかりというものが、これから先もないからじゃ。つまり、きみは完全に、永久に、わしのとりことなったわけじゃ。ハハハ……。」蛭田博士は、さもゆかいでたまらないというように、にくにくしく笑うのでした。
泰二君は、あまりのおそろしさに、口もきけないほどでしたが、もういよいよのがれる道がないときまると、子どもながら、かえって、度胸がすわってきました。そして、この魔法使いみたいな顔をした博士が、むしょうににくらしくなってきました。
「き、きみは、ぼくになんのうらみがあるんです。そして、ぼくをこれからどうしようっていうんです。」
泰二君は腹だたしさに、かわいいほおをまっかにそめて、怪博士につめよりました。