翌日、本村は朝からフェニキア・ホテルの部屋に閉じこもり、与座波朝親からの連絡を待った。昨夜別れ際に、中東情勢に詳しい諜報関係者がいたら会わせてほしい、と謝礼をほのめかして頼んでおいたのだ。だが、与座波からの連絡はなかなか来なかった。
本村は所在なく、ホテルの窓から、前のジャベール通りを見降した。空も土も乾き切って見えたが、それでも棕櫚の並木は緑を保っていた。
ベイルートでは六月から八月にかけての夏期には一滴の雨もない。だが東方の山地から流れ出る水が、枯れることなくこの街を養っている。海と山とにはさまれたレバノン=パレスチナの地は、かつて十字軍がアラブやトルコの回教徒と争った、�中東の真珠飾り�と呼ばれる恵まれた土地なのだ。
与座波からの連絡は、夕方になっても来なかった。六月末の陽も西に大きく傾き、正面から本村の部屋の窓を照しはじめた。人の心を誘うような、紅く大きな夕陽であった。
〈昔、この地に住んだフェニキア人が、遠く西の海に船出したのも、この夕陽に誘われてのことではなかったか〉
本村はそんなことを考えてみた。彼はもう与座波からの連絡はあるまい、と諦めかけた。ちょうどその時、何の前ぶれもなく、与座波朝親が部屋に入ってきた。
「お金かかるよ、いいかね本村さん」
「いい人が見つかったかね」
「ああ、いい人よ、最高よ。アラブにもユダヤにも、それからアラブゲリラの各派にも通じた凄い男よ」
与座波は、自分の苦心談を長々としゃべった。
本村は、それを聞き流して、いきなり百ドル札を十枚、与座波の鼻先に突きつけた。
与座波はしばらくそれを見つめた。
「仕方ないね、鴻森家の客人なんだから、まあ会わすよ」
連れていかれたのは、回教徒地区にあるオリエンタル風のナイトクラブのような店だった。薄暗い店内には、低い台を半円形に囲んで、四、五十人分ほどの客席が並んでいるが、時間が早過ぎるのか、よほどさびれた店なのか、客の数は少ない。
与座波は、顔見知りらしい給仕頭と掛け合って、一段高くなったボックス席の一つをとり、ネビーズとデーツのつまみ様の小皿だけを取り寄せ、しばらくの間、とりとめもない話題を繰り返ししゃべった。
八時になろうという頃、与座波はボックス席の前にかかった厚いカーテンを閉じた。ボックス席は、四面を飾り布で囲まれた個室に変わった。
そして反対側の垂れ布を引張ると、それは音もなく開いた。背後に現れたコンクリートの壁には、小さな扉があった。それを押し開けた与座波は、本村に中に入るように、首で合図をした。
〈とんだ007だ〉
本村は苦笑しながら、扉をくぐった。
ドアの内側は、コンクリート地の壁に囲まれた小さな部屋になっていた。敷物も飾りもない。淡い裸電球の下に、酒ビンとグラスと三人分の料理皿を載せたテーブルが一つ、簡素な木製の椅子が四脚、ただそれだけがあった。そしてその椅子の一つに、金髪の大男が一人、坐っていた。
日焼した顔に、傷痕のような深いしわが何本も走り、細い目の中の灰青色の瞳が鋭い。
「グスタフ・フォン・マイヤー」
金髪の大男は坐ったままで本村に右手を差し出した。
「残念ながら自分は日本語ができない」
男のアラビア語を、与座波が通訳した。
「アラビア語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、またはヘブライ語のうちから選んで欲しい」
「イングリッシュ・プリーズ」
本村は答えた。
「中東は、近い将来、つまり一年以内に戦争が起こる可能性が三分の二以上ある。それが、きわめて大規模かつ広域化する確率は、二分の一以上あると確言できる」
グスタフ・フォン・マイヤーは、いきなりそう切り出した。
「アラブ諸国とイスラエルの関係は、一九七三年の第四次中東戦争によって、一層危険な方向に進んでいる。エジプトはシナイ半島に多少の失地を回復し、名目的な勝利者とはなりえたが何の実効も得ていないし、シリアは名目的勝利すら得られなかった。民衆の間には勝利感と前進のない現実との差から不満は拡大している。一方、イスラエルは、自らの軍事的勝利を、石油戦略に屈した欧米によって盗まれた、としか考えていない。そのうえ、過激派アラブゲリラのテロがあるし、急速に増強されるアラブ諸国の軍備によって、中東の軍事バランスが不利になっていくことに苛立っている。国民の間には予防戦争論が日増しに強まっている」
「産油国と欧米諸国による、双方に対する抑制効果をどう評価するか」
本村は質問した。
「外国の抑制力は、理性的な為政者にのみ作用するもので、国民大衆には逆効果になるばかりだ。しかしそのことは重要だ、とくにアラブ側について……。それは、第二の問題、つまりアラブ諸国間の対立を激化させている、という意味においてだ。つまり急進派と穏健派との対立だ」
マイヤーの英語は聞きとりやすかった。
「急進派諸国は、民族社会主義への道を歩んでおり、保守的な部族社会と神聖王制を維持する穏健派諸国とは理念的体制的に相入れない。そのうえ、急進派は、人口が多く産油量の少ない国がほとんどなのに、穏健派は人口過少の大産油国が多いから、経済利害の点でも対立は深まっている。急進派諸国には、穏健派の国王・首長たちに対する不信が根深く、第四次戦争における石油戦略も結果的には�アラブの大義�よりも産油国自身の収入増をもたらしただけだということに不満が大きい。また、大産油国の王様たちが膨大な外貨を蓄えながら、十分な軍事経済援助を他のアラブ諸国に行っていない、と急進派諸国やパレスチナ難民たちは非常に不服だ。急進派諸国が、パレスチナ解放戦線を加えて、軍事経済同盟を締結しようとしているのは、このためだ。この同盟はおそらく三週間後に調印され、公表されるだろう」
と、諜報者らしい言葉を加えた。
「当然、穏健派諸国にも不安は大きい。彼らは膨大な石油収入を持っているが、軍事的外交的、とくに内政的不安に怯えている」
マイヤーは、ここで�強いが貧乏だ、と思われるほど嫌われることはない。金持だが弱いと思われるほど危険なことはない�という、アラブの諺を紹介し、
「いまのアラブは、はっきりこの二つに分かれている」
といって薄く笑った。
「このことは第三の問題、アラブ諸国の内的不安定と関連している」
マイヤーはまた、真面目な表情に戻った。
「戦後中東には、成功不成功あわせて五十回以上のクーデターや革命があった。しかもここでは、民族、言語、宗教の共通性から、一国の内政は常に国際化する。アラブが今日のように多数の国家に分かれているのは全く人為的であり、なんら歴史的社会的必然性がないからだ。アラブ諸国の政治家、軍人および革命家にとって、隣国は決して他国ではない。だがここで、とくに強調したいのは、穏健派といわれる大産油国における人口変動、つまり移民の問題だ。石油は資金のみでなく人間をも引きつける。たとえばクウェートだ。この国の居住者は九十万人を越えているが、クウェーティーといわれる本来のクウェート人は二十万人しかいない。残り七十万人は移民で、正式のクウェート国民とは認められていない。もちろん選挙権はない。移民には会社を設立する権利もない。事業を興そうとすれば、かなりの名義料を支払ってクウェーティーの名前を借りねばならない。つまり移民たちが、現体制に対して過激化する要素は十分にあるわけだ」
マイヤーは、さらにいくつかの産油国の実状と人口統計を説明した。
「これらの産油国における流入人口はインド、パキスタン、イランなどの非アラブ諸国からの者も少なくないが、もちろんアラブ人もまた多い。彼らの多くは、急進的な民族社会主義の道を歩む祖国を持っているし、その中にはパレスチナ難民も少なくない。つまり移民の流入は同時に、社会思想と組織の流入であることに注目しなければならない。こうした人びとが、近代化した都市に集住することは、部族社会と神聖王制とを支柱とする穏健派諸国の内部に重大な影響を与える。穏健派のスルタンやシェイクたちが、これ以上の石油増産を好まない原因の一つは、これ以上の人口流入を防ぎたいからだ。また彼らが遠いパレスチナでの紛争に強硬な態度と軍資金援助を示さねばならない理由の一つも、国内のパレスチナ移民への政治ポーズが必要だからである」
マイヤーは言葉を切り、ウイスキーをあおった。
「ところで第四の問題は、ヨルダンおよびパレスチナ難民だ。一九七三年末にモロッコのラバトで開かれたアラブ首脳会議をご記憶だろうか。あの会議で、ヨルダン川西岸のイスラエル占領地区にパレスチナ解放戦線PLOを代表とする�パレスチナ人の国�を創ることが採択されたのだが、この採択は気の毒なヨルダン王国を一層苦境に陥れただけだった。そのため、急進的思想を持つパレスチナ難民多数をかかえながら、ベドウィン族の軍隊に支えられて王制を保つヨルダンはますます不安定化している。地理的にも政治的にも、急進派と穏健派の中間に立つヨルダンの変動は、中東の危険な発火点ともなりかねない。一方、パレスチナ解放戦線も、これによってある程度国際的公認を得たが、それも名目的なものに過ぎない。イスラエルの細長い国土を深くえぐる形で、反イスラエル意識の強いパレスチナ人国家を創ることに、イスラエルが同意するはずがないからだ。それに加えて、パレスチナ解放戦線がこれに同意したことに対して、全イスラエル領土の解放を主張する、より過激なパレスチナ人組織は一斉に反発しており、いまやパレスチナ人組織やアラブゲリラを統括することができにくくなっているのだ」
マイヤーはもう一杯ウイスキーをあおった。
「もう一つ中東をめぐる外部情勢についても触れねばなるまい。中東をめぐる米・ソ・中・英・仏などの軍事・政治問題についてはすでに多くが報じられている。また年間七百億ドルに上るオイルダラーが、世界経済に与えている破壊的な影響についてもご存知だろう。私がここで追加したいのはイランおよびオマーンの問題だ。イランは世界第二の大石油輸出国であり、中東最大の軍事大国でもある。強力な空軍と陸軍を持ち、アラビア湾のどこでも使用しうるホーバークラフト部隊をつくり上げている。絶対王制ともいえる体制をもつイランは、アラブ穏健派諸国の軍事的スポンサーでもあるが、半面伝統的なペルシャ人とアラブ人の対立およびシーア宗徒とスンニ宗徒の反目によって、全アラブ諸国とは分離している。つまりイランの存在は中東に奇妙な勢力の不等辺三角形を造っているわけだ。イランは過去五年間に、少なくとも六回イラクと武力衝突し、三回以上オマーンの内戦に出兵している。イラン、イラクの間にはクルド族問題がある。この問題はいまのところ小康を得てはいるが、パレスチナ問題に匹敵する難問だ。クルド族居住地区にイラク最大のキルツークなどの油田があるからだ。また数年来続いているオマーン王国のゲリラ戦も重要だ。南イエーメンやリビアの急進派に支持されたゲリラは、少数ながら頑強であり、しばしばイランおよびサウジアラビアの介入を招いている。とくにこれが重大なのは、オマーンがアラビア湾の唯一の出口、ホルムス海峡を押える位置にあるからで、全中東の死活にかかわる意味があるわけだ」
マイヤーは言葉を切り、ウイスキーと水とをゆっくりと飲み下した。
客席の方ではダンスでも始まったのか、物悲しい音楽が、厚いドアと二重のカーテンを通して、かすかに響いてきた。
マイヤーは、流暢な英語で再び話しはじめた。
「中東には多くの火薬庫がある。私は、こんど戦争が起これば、これらが連鎖反応を起こし、中東全体を大乱に陥れると見る。その理由は、これらを繋ぐ導火線が整っているからだ。それは過激派アラブゲリラの組織である。彼らは、パレスチナ解放戦線の妥協的な態度に怒り、ますます過激化する一方、産油国に移住したパレスチナ難民らの間にも組織を拡大している。彼らはすぐれた指導者、ザイジールのもとに結集している。ここにはアラブ人だけでなく、欧米や南米、そして日本人の過激派分子も多数来ている」
「日本人が……」
最後の言葉に、本村は驚いて、聞き返した。
「彼らは、中東に大規模な戦乱を起こすことが、日本の体制を崩壊させる早道だと考えている。それがザイジールの発見した世界革命における起爆一元理論だ。それはある程度正しい。少なくとも、単純な体制崩壊に接近するだけならば……」