東京都千代田区霞が関二ノ二、そこに建つスマートなビルの最上階、東端に年中灯火の消えない部屋がある。日本国政府外務省大臣官房通信課、全世界に張りめぐらされた外交網と繋がる、日本の触角に当たる一室である。ここには深夜も早朝もない。日曜も祭日も盆も正月もない。常に、当直電信官と数名の補佐官が交替で詰めている。
この部屋に、ダマスクスの駐シリア日本大使館から最大至急電が飛び込んだのは、十一月二十日午前四時十八分を、十五秒ほど過ぎた時であった。
「駐しりあ日本大使館発
日本政府・外務省宛
最大至急……要回電
しりあ、いすらえる交戦、だますくす市内空襲ヲ受ケツツアリ……」
電報は短く、かつ平文(暗号化されていない外交電文)だったが、これを一読した当直電信官の顔は、黒く引きつった。
「中東関係、非常緊急連絡! 大至急」
当直電信官は、大声で電文を二度読み上げた。
眠そうに机にもたれていた三人の電信補佐官は、バネ仕掛けの人形のように電話機に飛びついた。
二人の補佐官が、外務審議官、外務事務次官、欧亜局長、アジア局長、経済局長、中近東課長、外務大臣秘書官など、中東問題に関係する幹部の自宅へ次々と電話を入れる。もう一人の若い補佐官は、公用車控室に連絡し、当直の運転手に迎えに行くべき相手の氏名と住所を伝えた。
当直電信官は暗号解読書を手に受電装置の脇に立った。後続電報の入電に備えるためだ。数分のうちに電報が入りだした。テルアビブの駐イスラエル大使館から、カイロの駐エジプト大使館から、そしてベイルートの駐レバノン大使館からの、いずれも最大至急・平文電報で、アラブ、イスラエル交戦の事実だけを伝えていた。
そしてその時にはすでに未明の霞が関を、八台の自動車が走り出た。
霞が関の官庁街は暗かった。どの役所も灯を消していた。この界隈を不夜城と化す予算折衝が始まるのは三週間ほど先のことだ。
外務省の幹部が次々と到着し、三階の外務審議官室に集まった。政治よりも経済に影響の大きい中東問題は、外務審議官が総括担当者である。
元外務事務次官、前駐米大使の春日井梅盛外務審議官が現れたのは午前五時二十四分だった。すでに、欧亜局長、アジア局長、経済局長、それに中近東課長が、待っていた。自宅が遠い事務次官らはまだ来ていない。
春日井は無言で一同を見回した。どの顔も青白く緊張していた。オーバーを着たまま、春日井は中央のソファーに腰を降ろし、電報の束に目を通しはじめた。彼のふくよかな丸い頬が、かすかに震えていた。
電報は、すでに十数通になっていた。
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「いすらえる軍ハ、一部あらぶ侵略分子ノ不法カツ不意ノ攻撃ニ対シ、断固タル反撃ヲ加ヘツツアリ」
という、イスラエル政府声明を伝えるテルアビブの大使館からの大至急電。
「しりあ共和国ハ、いすらえる・しおにすとぐるーぷニヨル、全テノ協定ト国際法規ヲ無視シタ攻撃ノタメ、自衛権ノ発動ノ止ムナキニ至ッタ……」
という、シリア政府発表を報じるダマスクス発大至急電。
「いすらえる空軍機ニヨル、ワガ国領土ニ対スル不法爆撃ニ対シ、ればのん政府ハ厳重ニ抗議スルト共ニ、コレニ反撃スル権利ヲ留保スル……」
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というベイルートからの至急電。……
まだ情報不足で、中東の情勢はよくわからない。それでも、春日井は一応交戦範囲だけはおおよそとらえることができた。どうやら戦争は、イスラエルとシリア、エジプト両国との間にだけ行われているらしい。イスラエル空軍が、レバノン領の一部を爆撃しているが、これは国境近くに集結中といわれるパレスチナ・ゲリラを対象としたもので、レバノンそのものに対する宣戦ではなさそうだ。
「戦いは、シナイ半島とゴラン高原に限られているらしい」
と、欧亜局長がいった。
「でも、双方の爆撃は、かなり奥深く行われているようですね。ダマスクス、カイロ、テルアビブ周辺、エイラート……」
アジア局長は不安気な顔をした。
「急進派諸国の軍事同盟が結ばれているから戦争はまだ拡大するでしょう」
と、中近東課長も緊張した表情を崩さずにいった。
「そりゃそうだろうが……」
経済局長が口をはさんだ。
「この前の第四次中東戦争の時とは違って、アラブ諸国の結束も必ずしも強くはないから、穏健派の国々は参戦しないんじゃないか。それにいまは世界的に石油需給が緩んでるから、石油の生産・輸出制限という石油戦略も効果が薄いからやらないだろう」
経済局長は中東情勢には常に楽観的な意見の持主だった。しかしこの場合には彼の言葉がみなを落ち着かせる効果を持った。
「大臣はすぐ来られるそうです」
長岡外務大臣に電話連絡した大臣秘書官が、戻ってきて、そう伝えた。
春日井は、ちょっと考えてからいった。
「関係各省にも連絡しよう。おそらく緊急閣議を開くことになるだろう」
大蔵省国際金融局長、通産省通商局長、同エネルギー庁長官、運輸省海運局長、経済企画庁調整局長、内閣官房副長官らの「中東情勢検討会議」のメンバーに、とくに今朝は、運輸省航空局長、防衛庁防衛局長および総理大臣外交問題担当秘書官の三人を加えるように、春日井は指示した。