「あなた、大変よ」
本村英人は翌朝早く、妻の法子に起こされた。
「もう株はダメなの」
法子は、はれぼったい目で不安気にいった。
「どうして……」
本村はわざと落ち着いた表情でいった。
「取引停止ですって。あなた知ってるの」
法子は苛立たしそうにいった。
「ああ、知ってるよ。俺は新聞記者だからな」
本村は、法子がヘソクリで株を買っていることを知っている。どうせ五千株か七千株ほどだろうが、彼女は真先にそれを心配していた。本村は、すぐ再開するだろう、といって妻を安心させたが、
〈こんな会話が、いま、日本の家庭で交されているのだ〉
そう思うと、本村はぞっとした。
法子が置いていった各紙朝刊には、センセーショナルな見出しが並んでいた。
「中東戦争拡大──アリー・ムガーディー両首脳参戦を声明」
「欧州外為市場閉鎖──国際金融大混乱の恐れ」
「株式、史上最大の暴落──今日、取引停止」
この日(十一月二十一日)は、朝から混乱が始まった。早朝から東京の道路は大混雑に陥り、ガソリンスタンドには給油を受ける車の列が出来た。銀行も開店と同時に満員となった。人びとはまず貯金引き出しに走った。
続いて百貨店やスーパーマーケットに人があふれた。主婦たちは、トイレットペーパーや洗剤、砂糖、小麦粉など、前の石油危機の時に姿を消した商品を買いあさった。午後になると、これらの商品が売り切れとなる店も現れた。そしてそれが、一層消費者を慌てさせた。
この時期、トイレットペーパーや洗剤は不足してはいなかった。それどころか、過剰在庫の顕著な商品であった。だが、この種の、かさばかり大きく、金額の安い品物は、どこの店でもせいぜい一週間分くらいしか置いていないから、すぐ売り切れるのは当たり前であった。
主婦たちには、そんな理屈はわからない。近所のスーパーマーケットが売り切れになると、もう日本国中からトイレットペーパーや洗剤がなくなるに違いない、と信じた。トイレットペーパーがなくなると他の品物もなくなるだろう、と想像した。午後には買い溜めラッシュが全商品に波及した。
男たちとて、主婦たちを笑うことはできない。昨日一日は落ち着いていた企業マンも、あわてて原材料や燃料仕入れに走りだした。資金、経理の連中は、この原材料買い込みのための資金作りに銀行に駆けつけた。午後になると、運送会社、倉庫会社が忙しくなった。とくに、石油製品の荷動きが激しく、タンクローリーが混雑した道路で、右往左往した。
十一月の最後の十日間、通産省の全部局は多忙を極めた。全国各地からモノ不足を訴える電話が、通産省へ殺到した。通産省では、メーカーや問屋に在庫品の緊急出荷を要請し、主婦たちの不満を解消しようとした。だがこれはそう簡単な話ではない。
品物はメーカーから元卸問屋へ、元卸から地区卸問屋へ、そしてそこから一般小売店へと流れる。品物さえあれば、どこのメーカーからでも、どこの小売屋へ運んでもよい、というわけのものではない。問屋も小売店も、仕入れはほとんど手形か後払いで行っているから、信用関係のない業者を結びつけるわけにはいかないのだ。一地区の小売店の品不足を解消するためにも、いくつものメーカーから、何段階もの問屋を通じた末にやっと品物が届くわけだ。
「もう二日も品切れが続いているのに、政府は何をしているんです」
と、主婦たちは叫んだ。
それを新聞やテレビは大げさに報じた。
通産省は、比較的流通経路の短い、大手スーパーマーケットや百貨店に、メーカーや元卸からの大量直送を行うことにした。一日か二日のうちに品不足を解消するにはこれしか方法はなかった。だがこれには思いがけない世間の批判が起こった。
「なぜ大手スーパーや百貨店だけ優先するのか。零細小売店をつぶす気か」
「通産省は大企業と癒着しているのだろう」
だが、努力のかいあって、十一月二十七日頃には、モノ不足騒ぎは一段落した。農林省や厚生省も、食料品や医薬関係で同じような効果をあげた。世の中はいくらか落ち着きを取り戻しつつあった。
しかしこの時、またも不幸な事件が中東に起こった。十二月一日、アブドッラー王が暗殺されたのである。