「次の手を用意せんといかんでしょうな」
石油消費節減要領の記者説明から戻って来た寺木鉄太郎石油第一課長は、まずそういった。
淡い冬の陽がエネルギー庁長官室にさし込んでいた。
黒沢修二長官は、力なくうなずいた。
二人は、今日の案には不満だった。一〇%節減という量も不十分だったが、内容はもっと不満だった。
ヨーロッパ諸国は、前回の石油危機の場合と同じように、生活用の石油消費を抑制している。一般乗用車の使用禁止と家庭用・商店用の暖房用石油・電力の制限が主要な柱となっており、産業用、とくに工業用の原燃料や物資輸送用のトラック・船舶の燃料には全く制限を加えていない。これには二つの理由があった。一つは、消費を抑制すればモノが売れなくなるから、生産用の需要も自然に削減できるという考え方であり、他の一つは、消費を抑えず生産を制限すると、需給のアンバランスによって物価騰貴や国際収支の不均衡を生むという見方である。
このヨーロッパ流の考え方は理論的にも実際にも正しいだろう。事実、前回、生活優先で産業面を強く抑制した日本は、その後世界一の物価急騰に悩まされたのだ。だが、この点の反省は全くなかった。生活消費を抑えようというエネルギー庁の意見は、他の省庁にも政党にも「世論」にも受け入れられなかった。
「どうだい、あっちの方は……」
寺木は、睡眠不足で充血した目を小宮幸治に向けた。
「ええ、午後、向こうから何人か来ることになってますが、三〇%節減策はかなり進んでいると思います」
中東戦争勃発と同時に、油減調査は�仮定の問題�から�現実の必要�になった。寺木は十日ほど前、「日本の石油需要を三〇%および五〇%削減する場合の最良の政策」というテーマを提示し、先の油減調査のグループに回答を急がせていたのである。
夜、小宮幸治は、公益事業部の安永博と運輸省の若水清とともに、東京鴻芳ビルへ出かけた。関西経営協会の今田調査部長、雑賀正一京大助教授、鬼登沙和子の三人が待っていた。
「どうですか……」
小宮は、雑賀に声をかけた。
「うん、三〇%のは大体出来た」
雑賀はぶっきら棒に答えて、手許の厚い綴りを小宮の方に押しやった。
雑賀の顔はひどくむくんでいた。
綴りの表紙には「石油消費三〇%節減(案)」とマジックペンで書いてある。半紙大五十枚ほどに、細かい活字のような文字が並び、ところどころに右上がりの朱筆の訂正が加えられていた。細かい字は、鬼登沙和子の筆跡であり、朱筆は雑賀のものらしい。
小宮はそれをざっとめくった。(1)石油割当案およびその実施方法、から始まって、(2)運輸対策、(3)物資販売・流通対策、(4)農業および食糧対策、(5)金融対策、(6)国際通貨問題と貿易対策、(7)労働対策、(8)治安対策、(9)組織および運営上の諸問題、(10)公報上の留意事項、の項目が並んでいる。
「こりゃ凄いや」
横からのぞき込んでいた若水が声を上げた。
「まるで国家総動員法だなあ」
「うん、たった三〇%、石油消費を削るのにこうまでする必要あるかねえ」
安永も同調した。
「そうでしょうか」
鬼登沙和子だった。
小宮が沙和子と直接顔を合わせるのは、あの十月はじめの夜以来だった。沙和子の態度にはなんの変化もなかった。疲れも汚れもない白い顔が無表情だった。
「ヨーロッパじゃ石油消費の二〇%節減をやってる国もあるんですよ。だけど、そう大騒ぎしてませんからね」
ヨーロッパ諸国の二〇%節減より、たった一〇%多いだけの節約に、どうして金融対策や労働対策、治安対策まで、そう大げさにやらねばならないのか、というのが安永の疑問である。
「エネルギー消費を減らすと、その影響は節減率の二・五乗から三・五乗に比例して大きくなるのです。平均三乗とみていいでしょう」
沙和子は抑揚のない声でいった。
「じゃあ、二〇%と三〇%じゃ八対二十七、つまり三倍半ぐらいの影響になるわけですね」
小宮は、沙和子の示した複雑な数式を理解しないままにいった。
「ええ、でも日本とヨーロッパではそれよりずっと大きな差でしょう」
つまり、全エネルギーの七五%を石油に頼る日本と、六〇%以下のヨーロッパとは、同じ比率で石油需要を節減しても、全エネルギー供給の減少率は相当に違う、というわけだ。これだけを単純に考えても、日本の三〇%節減の影響はヨーロッパ諸国の二〇%節減のそれの六倍以上になる計算だ。そのうえ、石油の需要構造の差からも、日本の方が深刻な影響を受ける形になっている。実質的には十倍ぐらいの差が出る、と沙和子はいった。
「影響の大きさは量的な問題だけでなく、当然質的な変化もあります。私たちの予測では、影響の量が三倍になるごとに、質的飛躍が起こります。だから十倍の差は、質的に二段階違うんです」
「それじゃ五〇%も石油消費を節減すると、これよりまた四・六倍ぐらいの影響が出るわけだ」
数字に明るい安永が暗算で三乗計算をやってみて、いった。
「そうですね、そしてもう一段、質的に飛びます」
と、沙和子は答えた。
「そらえらいことや。とうていできん、そこまでは、ねえ」
若水が大げさに手を振った。
「でも、多分それが必要になるでしょう」
沙和子は冷やかな口調で、そういった。