「当面、石油消費の一〇%節減を行う」──これが閣議決定されたのは十二月五日、中東戦争勃発十五日目、戦火がアラビア湾奥に波及した翌日であった。
欧米諸国ではこの前日か前々日に、これよりはるかにきびしい消費節減措置を決定していた。
アブドッラー国王の死後、その遺領をめぐって戦火が燃え上がったのは、十二月三日払暁、王の死後わずか四十三、四時間の後だった。この日未明、国内のパレスチナ難民を中心に組織されたゲリラ部隊の一隊が、イスラエル領へ奇襲をかけた。彼らは、イスラエル軍の警戒網を潜り抜け、補給基地と一般住民居住区に、ロケット弾を撃ち込み、爆弾を仕掛けた。その攻撃地域は、アラブ首脳会議で�パレスチナ人自身の国を建設すべき場所�と決定されていたことが、ゲリラ部隊を大胆にしたのである。
イスラエル軍は、直ちに反撃し、ゲリラ部隊の基地と化しているアブドッラー王国内のパレスチナ難民居住地帯に越境行動を開始した。それがまた、アラブ急進派諸国の反発を招き、軍事進駐の口実を与えた。十二月五日のうちに、北と西から、急進派諸国の軍隊が故アブドッラーの王国に侵入した。同時にこれに対抗する形で、南部には穏健派諸国の軍隊が派遣された。
この結果、直接国境を接しないいくつかの国の軍が接触し、戦闘が行われた。それは、相互に相手国内の後方基地に対する空襲爆撃の交換に発展した。
空爆は、それほど大規模なものではなかったが、とにかくこれによって、中東の戦火は、シナイ半島とゴラン高原の砂漠から、メソポタミア平原の全域に拡大した。そしてアラビア湾奥にあるいくつかの石油施設が被害を受けた。バスラやアバダンからの報道は、油田あるいは精油所の炎上が遠望されたことを伝えていた。
しかし、もっと重要なのは、これによってアラビア湾奥一帯が「戦時危険水域」となったことである。
アラビア湾奥の狭い水域には、ウルカスルーのソ連海軍基地をはじめ、多数の石油積出港や軍・民の港があり、世界各国の艦船が集まっている。この水域がいち早く「危険水域」に指定されたのは、これら外国の艦船が被弾することによって、第三国の中東戦争介入を招くことを未然に防止するためであった。
しかしこれによって、全世界の石油輸出の三割、そして日本の石油輸入の四割強を占めるアラビア湾奥の原油の大半が、世界の市場から閉め出されることになったのである。
中東の危機は拡大の様相を示した。チグリス川上流地域に蟠踞するクルド族の動きも急速に活発化し、アラビア半島南端の�共産ゲリラ�の活動も急拡大の兆があった。そして、石油戦略の発動をめぐるアラブ諸国内の論争が、危険な方向へ進みはじめた。
急進派諸国は当然、石油戦略によってイスラエルとその支持者に対し、外交的重圧を加えるべきだ、と主張したが、穏健派諸国の一部はそれをしぶった。このため、最も過激なアラブゲリラ組織などは、一部穏健派諸国の国王とその政府を敵視する声明を発表し、必要ならば彼らの石油施設に対する破壊活動も辞さず、とさえ警告した。穏健派諸国の体制と石油施設を守るため、外部諸国が派兵するだろう、という観測も流れはじめた。
欧米諸国は直ちに石油消費節約措置を実施した。全石油消費の八五%を国内生産で賄っているアメリカは、�当面七%の節約�と、余裕のあるところを見せたが、ヨーロッパ諸国は、いずれも一挙に一五%から二〇%の大幅節減を打ち出した。フランス、オーストリア、スイス、スウェーデンなどは、石油類の配給制に踏み切った。
西欧諸国に比べると、日本の対策は緩かだった。エネルギー庁は、少なくともヨーロッパ並みの一五ないし二〇%の節減を主張したが、政治的配慮と体制上の不備から、そして何よりも、戦争が案外早く収まるのではないか、という希望的観測から、当面の石油消費節減は一〇%を目途とすることになったのである。
十二月五日、閣議終了後、エネルギー庁は「石油消費節減実施要領」を発表した。
[#ここから1字下げ]
(一)ガソリンスタンドの営業時間を、平日の午前八時から午後五時までとする
(二)石油化学工業、鉄鋼業など、石油・電力多消費産業の生産を二〇%低下させる
(三)特定の生活必需品製造にかかわるものを除き、工場の電力使用量を一〇%削減する
(四)ビルなどの暖房用石油および電力消費を一〇%削減する
(五)ネオンサイン、エスカレーターなど不要不急の電力使用を禁止する
(六)タクシー、ハイヤーの燃料割り当てを従来の八〇%以下に抑制する
(七)テレビ放送は、午後十一時までとする
(八)家庭における石油・電力使用の節減を呼びかける
[#ここで字下げ終わり]
これは、一九七三年末の石油危機の際に採った措置とほぼ同じ内容であり、前回同様�生活優先・福祉尊重�の線に沿うものであった。