十二月二十一日夕刻、「第二次石油消費節減実施要綱」が関係各省庁間で合意に達した。
試算上の節減率は二六・六%となっていた。四捨五入すれば、先に閣議決定した�三割を目途とした節減�という線が、一応保たれたというのが、この案のミソであった。
「まあなんとか形だけはついた」
石油問題関係各省庁連絡会議が、修正案を了承した直後、黒沢エネルギー庁長官は、ほっとした表情をした。
正式決定には、明朝の閣議が残っていたが、それはもう形式的なものだ。与党の実力者たちとも、話はついていた。
〈すべてが無駄な努力かも知れない〉
当面の問題が片づいてしまうと、小宮幸治は絶望的にならざるをえなかった。
遠い彼方で、石油供給は大幅に削られてしまったのだ。日本としてやろうとすればできた対策、石油備蓄の増強や原子力発電の拡大などは、日本人自身が公害反対とか自然保護とかの理由でつぶした。もうどうにもならない。いま、残されているのは、限られた石油の奪い合いに過ぎないのだ。
年末の空はすでに暗く、暖房の切れたエネルギー庁の建物の中はひどく寒かった。職員たちは、どの顔も、寒さに青ざめ、疲労に黒ずんで、陰鬱だった。その暗い、冷えた室内に、外で叫ぶデモ隊のシュプレヒコールが流れ込んでいた。
〈おそらく、もうすぐ、もっときびしい消費節約を実施しなければなるまい〉
小宮には、デモの声が、無意味なものに聞こえた。
しかし、現実問題として、石油消費節減の実行には、多くの問題が残っていた。
たとえば、産業用の石油・電力の節減率は決まっていても、それを実施するためには、各工場に具体的な石油や電力の割り当てを行う必要がある。全国に六十五万もある工場の一つ一つごとに、その数値を決定するのは大変な仕事だ。前年同期の石油消費量や電力使用量を、石油購入台帳や電力料金領収書と照合して確認し、それに業種に応じた節減率を掛けて、今後の許容量を出さねばならない。そのうえ、各工場の業種の決定も簡単ではなかった。
一つの工場で、生活必需品の衣類と産業用のキャンバスシートや建築内装用の壁布を作っているとか、食料品用のビンと産業用のガラス管とを加工しているとかいった例はいくらもある。一つのビルの中に、銀行と貸事務所と外国語学校とが雑居しているところも珍しくない。それを一つずつ検討して、それぞれの比率で分けて節減率を算出するのは、気が遠くなるほどの作業である。
それ以上に困難な問題は、こうして決めた石油・電力の割り当てを、どうして厳守させるか、であった。石油類については、割当相当量の石油配給切符を給付する方法が考えられたが、現に一日も休みなく続いている石油供給を直ちに配給制度に乗せることは至難である。どこの工場がどの石油販売店から購入するかを見極めなければ、各石油販売店にどれほどの油を送ればよいか判断できない。少なくとも配給切符が回収されて来る二ヵ月後でなければ、完全な実施は不可能だ。どう考えてもそれまでの間は、現に流通機構内にある石油が闇に流れるのを防ぐのはむずかしい。
電力はもっとやっかいだ。使用することによって自動的に供給されるのだから、配給切符というわけにもいかない。もちろん、電力は他から闇買いはできないから、毎月電気メーターを調べることによって、過剰使用は正確にチェックできるだろう。しかし、これも事後的にしか不可能である。
また、違反者に対する罰則の問題もあった。石油需給適正化法には、違反者に対し�一年以下の懲役または二十万円以下の罰金を科す�という規定(同法第十八条)はある。だが違反者を発見し、告発し裁判するには膨大な手間と長い時間がかかる。しかも、目前に大きな利益がぶら下がっている場合、あるいは逆に、倒産の危機が迫っている場合、�二十万円以下の罰金�が、どれほどの効果を持ちうるだろうか。
これらすべての仕事を短期日で行うには、各地方に一ヵ所、全国八つしかない総職員数二千人あまりの地方通商産業局の組織は、大海に浮ぶ小島のような、小さなまばらな点でしかなかった。しかもこれだけが通産局の仕事ではない。石油・電力の節減で生じるあらゆる物資の不足をカバーするための割当・斡旋の事務や、消費者から寄せられる苦情の処理など、これに倍する仕事が追いかけつつあった。
かつて、戦争中から終戦直後にかけて、これらの仕事のために三万人以上の役人と産業団体の職員が配置され、さらに完備した町内会や隣組制度がこれを支援した。いまは、業界団体は弱体化しているし、隣組はない。そして役所の機構はあまりにも中央に集中してしまっている。
仕事量と組織・人員のアンバランスに苦しんでいたのは、地方通産局のような政府機関ばかりではなかった。自動車燃料の配給のための自動車登録事務を担当させられた区役所や市町村役場も大混乱に陥った。ここでは全国二千万台近くある自家用車を、単なるマイカーと、商店の商品運搬用や医師の往診用などの「生活関連業務用」とに区分するのが大変だった。これを決める単一の基準はありえないからだ。
普通のセダンで商品を運んでいる商店も多いし、従業員所有の軽四輪を時々商品運搬に使っている店も少なくない。逆に、ライトバンをマイカーにしている者もいれば、会社名義の車を社長一家が乗り回している小規模企業もある。いままでは問屋からの配達だけで十分だった商店でもあわてて仕入れのためのトラックを購入していたし、一軒の飲食店が二台の車を持って来ることもあった。スポーツカーを配達用だというクリーニング屋もあれば、大型トラックを往診用に認めて欲しいという医師もいた。
こうした複雑多様な問題を、戸籍係や印鑑登録係をしていた市町村役場の職員が、ただ一枚の通達書を頼りに分類するのだから、所により人により、また日によってさえ、判断がまちまちになるのは避け難い。このため、どこの市町村役場でも、自動車所有者と職員との間に、不快な口論が起こった。そしてそのことがまた、市町村職員のやる気を失わしめ、この不快な仕事を拒む者も現れた。
さらに困ったことには、こうした過剰な仕事を地方自治体に押しつけるのは不当だ、という者もいた。�独断的非民主的な政府のやり方に抗議する意味で、すべての自家用車を「生活関連業務用」と認める�と宣言する市長も現れた。そしてひよわな日本政府は、こうした市長に対しても�辛抱強く説得する�以外の方法を持たなかったのである。
こうした混乱から政府は、十二月二十五日に至って、第二次消費節減は、一部を除き一月十六日まで延期する、と発表した。延期による石油消費量の変化自体はさほど大きなものではなかったが、早くも政府決定が変更されたということが、人びとの心理に与えた影響は大きかった。