鴻森邸の応接室は一年前と全く同じだった。ただ、暖炉の上の壁絵が、エル・グレコの婦人像から細いタッチの海岸の風景に代わっていた。
「えろ遅かったでんな」
芳次郎は二人と向き合って腰掛けると、まずそういった。
「この頃は新幹線も五時間かかるもんで」
寺木が答えた。
「いや、今月のはじめから、もう来やはるやろと思うて待っとりましたのに……」
「そういってもらうと話はしやすいですな」
寺木は苦々しく笑った。
芳次郎も表情を崩した。
小宮は、この二人の古い友人の対決を、見守った。
「アンダマン・フェニックスと二つのKYK、この三つの会社は、あなたのものですね」
寺木が椅子の上で坐り直して切り出した。
「まあそうだす。みな、こんどの事業をするのに作った十五社のうちですわ」
芳次郎はあっさりといった。
「で、それらの会社を通して、五万キロリットル近い石油を最近輸入されましたね」
「正確にいうと、二月四日から昨日まで、十二万八千四百キロリットル余りでんな」
「それを米などと交換したんですね」
「正確にいうと、先週までに六万六千七百キロリットルほどの軽油、灯油、ガソリンなどを約三万二千トンの米と交換しましたよ。ほかに化学肥料、その他との交換で約一万トンほどの米をもろてますんで、合計四万二千トン余りでんな。麦類が約四千トンほどでっかな」
芳次郎は無表情だった。小宮はその規模の大きさに仰天した。石油危機以前の価格なら一兆円にも達する大事業らしい。
「その米や麦は……」
「ご存知やと思うけど、不動産や株式と交換でお譲りしたげてますわ。もう七、八割は出てるはずでっせ」
「このあなたの事業について、私どもは大いに疑問を感じとるんですがねえ」
寺木の目は鋭く光った。
芳次郎は、静かな笑顔でこの視線を受けとめた。
「あなたは密かに石油を運び込み、人びとの困窮につけ込んで膨大な利益を上げておられるわけです」
寺木は身を乗り出した。青白い頬が少し赤らんでいた。
「人聞きの悪いことをいわんとくなはれ」
芳次郎は冷やかな声でいった。
「密かにというのは人の目、特に官憲の目をくぐって、ということやけど、私どもはちゃんと税関を通しとる。税金も払うとる。つけ込んでというのは、相手の弱点を利用してその希望に反して意思を変えさせて、というこっちゃけど、うちの場合はなんの圧力もかけずに相手の希望に応じてるだけや。それに、膨大な利益といわはるけど、いまの時代にはそれ相応の交換比率でやっとるんやから、果たして利益になっとるやら損をしてるんやらわかりまへんがな」
寺木は、機先を制せられた形になった。
「では質問の形を変えましょう」
寺木は上体を起こした。
「あなたはどこでどうしてその石油を入手されたんですか」
「ああそのことなら、お陰さんで。去年の夏から秋にかけて、石油の余っとる間に買いましてな。インド洋や南太平洋の小島に場所借りて置いとったんですわ。前にお役所にも見てもろうたニューマチックの貯蔵施設、あれが役に立ちましたんや。向こうでは別にそれを禁止する法律もおまへんのや。日本はまあ役所が多おてなかなか認めてくれんよってね」
芳次郎が再三、南洋に出かけていた理由がわかった。
「そいつを二月からぼちぼち運びましてな、なにしろ使える陸揚げ地がうちの関係会社の工場内のタンクしかないもんで、一回で二、三百キロリットルしか揚げられんので苦労しましたわ。慌てて閉鎖工場のタンク三つほど借りたりしてようよう間に合わしとりますけどね」
「しかし、ご存知のようにいまは、石油にも米にも標準価格がありますよ。お宅の販売価格、いや交換比率からみると、大幅にそれを上回ってるようですがね」
寺木は切り込んだ。
「そらまた意外なお説で……」
芳次郎は、本当に驚いたという風に目を見開いた。
「私の聞いとるんでは、標準価格ちゅうのは上限で、それ以下でならなんぼでもええはずですけどなあ。つまり、石油を一リットル二十円で売って米をキロ四十円で分けてもろていかんはずおまへんやろ。土地や株も安う売って悪いとは聞いてまへんけどね」
石油を高く売ったのではなく、米を安く買ったのだ。その結果、二百キロリットルのガソリンと九十キロのお米という交換比率が成立した、というのである。
たまりかねて小宮は、口をはさんだ。
「ただ、石油製品はすべて、石油需給調整法によって、指定された用途にしか販売できないことになっているんです、昨年の十二月からは。勝手に物々交換されるのはいかんのですよ」
声の震えるのが自分でもわかった。
「知っとります」
芳次郎は冷たい笑いを浮かべた。
「石油をお分けしたんはみな政府で最優先分野に指定してはるところばっかしでっせ。農業、トラック用、離島船舶用、食料品加工業の一部、みなそうだす。政府で予定通りやらはらんからみな困ってるんです。その不足を、まあごくわずかやけどうちが補うたげとるわけですわ」
寺木も小宮も沈黙した。
「違法行為はおませんやろ。この仕事にかかる前に、三人の弁護士さんと二人のお役所の先輩の方によう調べてもらいましたんやから。それでも万一、何か間違いがあったんなら、罰受けます。二十万円の罰金でしたかいな」
芳次郎は笑った。
お手伝らしい中年の女性が、茶と羊羹を持って来た。
「しかし、合法か違法かの問題は別として、道義的な問題としてどうでしょうか」
寺木は、芳次郎が茶碗を取り上げようとした時、いった。
芳次郎は、不思議そうな顔つきをした。
「そうです、道義的にです」
寺木は、自らを励ますように両手を握り合わせた。
「大勢の人が長い間かかってやっと手に入れた土地・建物や株式を、あなたはわずかな間に労せずして入手されている。これはやはり社会的に見て問題じゃないでしょうか」
「そらあ、物の値が変わったんやから仕方おまへんやろう。確かについこの前まで、土地は高うて米は安おした。いまは逆になったんですわ。三百四十円しとったS化学の株がいまは五十円を割っとる。それは別に道義的な問題はおまへんわ。考えてみなはれ、昭和二十二、三年には、都心の土地でも一坪二百円ぐらいでした。その時でも米は一升二百円近かったですわ。米一升で都心の土地一坪買えたんだっせ。私どもはまだそれよりはええ値で土地を受け取ったげてますねんからねえ。なんも道義的な問題はあれしませんわ」
その時、左手の扉が小さく開き、その陰から抑揚の乏しい女の声がした。
「米田豊作さんからお電話よ」
その声を聞いた瞬間、小宮は心臓が止まるかと思った。米田豊作という名前ではなく、その声自体に聞き憶えがあった。
「あとでこっちから電話する、いうといてんか」
芳次郎は扉に向かって返事した。
「理屈はいわれる通りでしょうが……」
寺木はなおも追及を続けようとした。
鴻森芳次郎の表情が一変した。微笑をたたえていた面長の顔が真赤になり、冷やかな瞳に炎が燃えた。
「寺木はん、それから小宮はん、はっきりいわしてもろて、私には法的にも道義的にもやましいところはおまへん。それどころかこんどの仕事を、先祖の名誉と家門の誇りにかけて自慢に思うとります。私どもは、去年の夏から秋にかけて約二十万キロリットルの石油を買いました。その大部分は今月末までに日本に運び、うち十万を米と交換に農民にお譲りする予定だす。これで、少なくとも五十万町歩の田畑が耕され、千万石ほどの米とその他の作物が収穫されるはずです。これで、今年の暮から来年にかけて何百万人もの人が助かりますんや。これは疑いもなくええことでっしゃろ、違いますか。しかも私はそれを、こそこそやったんと違いまっせ。私の得られる情報は全部あんた方政府にも提供しましたで。しかも政府はわれわれの何千倍もの資金と組織と権力をお持ちや。その政府に私どもは敢えて同じチャンスをお与えしたんだす。これ以上に公正なやり方がありまっしゃろか。もしあんたらが道義的責任を云々しやはるんやったら、私の方やなしにお宅らの方に問題がありますな。本当の問題はそんなことやおません。あんたらもやれるだけのことはやらはったんやろし、いろいろ事情もおましたんやろ。ただ私がここで問題やいうとるのは、その心ですわ」
芳次郎は熱っぽく語り続けた。
「つまり、あんたらは、私どものしたことで日本と日本人がようなったか悪なったかということを考えんと、それで私どもが儲けたかどうかを考えて、感情的になっておられる。それが問題や。一緒に苦しみ一緒に飢え、そして一緒に死んでくれる人は許せても、一人だけ安楽と栄華を極める奴には腹が立つ、そういう嫉妬心こそ、この日本をいまの窮地に陥れた元凶なんや。それが世の中を暗くし、硬直させ、盲目的な暴走に追いやるんですわ。本当の世の中の進歩と安全をもたらす人間は、ともに涙を流す無能な聖者と違ごて、勇気と先見とで人の動きと世の流れを抜きん出る者なんです。お互い頼り合うてふわふわ生きる追随心やのうて自らの決断と責任に賭ける自助の精神だす。私は、先刻もいうたように、こんどの仕事で儲けたんかどうかまだわかりまへん。そやけどとにかくこれに自分の決断と責任で賭けましたんや。自分の儲けになるし、日本のためにもなると思うたからですわ。私の祖先もみな、そないして生きて来たんでっさかいに、私も一生に一回、そういう賭をしたかった。いや、せなならん、とさえ思いました。あんたらが来やはった、あの一年前の夜に……」
六月の午後の、不思議なほどに静かな部屋に、鴻森芳次郎の言葉はある哀しみをもって響いた。
「一体、幸せな世の中とは何か、考えてみたことありますか」
少し言葉を切ったあとで、芳次郎は小宮に向かっていった。
「豊かな世の中が幸せか、技術が進んだらみな幸福になるのか、そうやない。二十世紀の人間が、平安時代や元禄の人間よりみな幸せやとはいえん。それぞれの時代に幸福な人と不幸な人とがいる。幸せかどうかは相対的なもんやからだす。ただいえるのは、個人の希望と社会が理想とする人間像とが一致する世の中、そんな時代がまあ幸せが多い、と私は思います。成功者は何の遠慮もなくその幸運を喜べるし、及ばなんだ者も不満と腹立ちを夢と憧れに代えられるんやから……。私は、今後の日本をそんな世の中にしたい。もし幸いにしてこんどの仕事がうまいこと行ったら、そういう目的にすべてを投げ出したい、と思てますのんや」
寺木と小宮は辞意を告げて立ち上がった。
「しかしこれからが大変ですわ。悪うしたら私の残りの生涯は訴訟で埋められてしまうかも知らへんなあ」
芳次郎は、壮大な理想とは遠くはなれた言葉を吐いて淋し気に笑った。
寺木と小宮が玄関口まで来ると、和服の女性が彼らを見送るために待ち受けていた。明るい色の派手な和服と手のこんだ髪型が印象を変えてはいたが、その小さな顔はまぎれもなく鬼登沙和子のものだった。