仮通夜の間中、日登美はまるで魂の抜けた生き人形のように、ただぼんやりと座っていた。
葬儀の段取りや何かは、四国の松山に嫁いでいた徹三の姉にあたる伯母が、急遽《きゆうきよ》駆けつけて来てすべて手配してくれた。
弔問客の応対や春菜の世話は、近所の主婦たちがやってくれている。
日登美は化粧もしない憔悴《しようすい》しきった顔に、喪服だけを着て、ただ三人の遺影の前に座っているだけだった。
何も考えることができなかったし、何も感じることもできなかった。
まだ覚めない悪夢の中を彷徨《さまよ》っているような気がしていた。
仮通夜が終わり、親戚《しんせき》の者だけを残し、近所の人も弔問客も帰ったあと、まだ遺影の前にぼんやりと座っていた日登美の前に一人の男が進み出てきた。
「……奥さん」
そう呼ばれても返事を返すことができない。どうやら自分のことらしいと頭では分かっても、現実感覚というものがすっかり麻痺《まひ》してしまったような感じなのだ。
「このたびは、なんとお詫《わ》びしてよいのか……」
その男は、絞り出すような苦しげな声でそう言うと、畳に両手をつき、深々と頭をさげた。
畳にこすりつけるようにして頭をさげていた男がようやく顔をあげた。
新庄貴明だった。
「新庄さん……」
日登美はつぶやくように言った。
この人は何をわたしに謝っているのだろう。
日登美は、ぼんやりとそう思い、不思議そうな目で新庄を見つめた。
「矢部の母親も、せめて一言なりとあなたにお詫びをしたいと言っていたのですが、もともと病弱の上に、今回のことで大変なショックを受けて、とても起き上がれる状態ではないので……」
新庄は、喉《のど》に腫《は》れものでもできているような苦しそうな声でそう言った。
矢部?
母親?
日登美の頭がゆっくりと反応した。
「まさか、彼がこんな大それたことをしでかすとは……。すべては、彼を紹介した私の責任です」
新庄は言葉に詰まったように黙った。日登美を見る新庄の白目は兎のように真っ赤だった。
ああ、そうだわ……。
日登美は妙に呑気《のんき》に思った。
父たちを殺したのは矢部稔だった……。
ずっと思い出せないことを思い出したように、日登美は心の中でつぶやいた。
あの夜、日登美は階下で徹三と歩の死体を発見したあと、気を失ってしまったのだ。気が付いたとき、病院のベッドの上にいた。
あとになって、矢部稔が、「人を殺してしまった」と警察に電話をかけていたことを知らされた。すぐに駆けつけてきた警官によって、日登美は救急車で近くの病院に運びこまれ、矢部はその場で逮捕されたということも……。
そのことを他人事のように思い出しても、奇妙なことに、矢部に対する怒りも恨みの気持ちも全く湧《わ》いてこなかった。
虚《うつ》ろになってしまった心の中を一陣の風が吹き抜けるような空しさしか感じなかった。
「……警察の話では、矢部は深く反省しているそうです」
新庄がようやく言うべきことを見つけたように再び言った。
「反省?」
日登美はオウム返しに聞いた。
「反省」などという、まるで万引きでもしたときに使うような言葉がおかしかったのだ。
五歳の幼児を含めた三人の人間を、出刃包丁で滅多剌しにして殺しておいて、「反省」している?
「あ、いや、その……」
新庄はややうろたえたように言い直した。
「一時の激情に駆られて、とりかえしのつかないことをしてしまった。奥さんには本当に申し訳ないことをした。一生を掛けても償いたいと泣いてばかりいるそうです……」
だからどうだというのだ。
日登美は口には出さなかったが、心の中でそう思った。
矢部が自分のしでかしたことを「反省」し、償いたいと思っているのが本心だとしても、それがどうしたというのだ。
亡くなった三人を生き返らせてくれるとでもいうのか……。
「あの子は……矢部は、なぜあんなことをしたのですか。夫や父だけでなく、幼い歩まで殺すなんて……どうして?」
日登美は食い入るように新庄の顔を見つめて聞いた。
「それが……歩君のことは殺す気はなかったようなのです。ただ、徹三さんを刺していたときに、隣に寝ていた歩君が目を覚まし、『おじいちゃんに何をするんだ』と自分に向かってきたので、つい弾みで刺してしまったと……」
新庄はそう説明した。
「それじゃ、夫や父は最初から殺すつもりだったというの? なぜ? なぜなの。あんなに親身になって面倒を見てあげたのに。なぜ、殺されなければならないのよ?」
日登美の目に涙があふれ出てきた。ようやく、怒りという人間らしい感情が戻ってきたようだった。
「……彼の供述によると、あの夜、秀男君から突然解雇を言い渡されて、目の前が真っ暗になってしまったというのです。今まで、秀男君や徹三さんにどんなにどなられ殴られても、じっと我慢してきたのは、一日も早く一人前になって、郷里の母親を安心させてやりたい一心からだったのに、それを、秀男君から、突然、『クビだ。出て行け』と言われて、どうしてよいか分からなくなったというのです。彼が一人前になるのを何よりも楽しみにしている母親がこのことを知ったらどんなにがっかりするだろうと思うと、絶望的な気分になったというのです」
新庄はそこまで言うと、ふと口をとざした。そして、ややためらいがちにこう続けた。
「それと……彼が解雇を言い渡されて絶望したのにはもう一つ理由があったようです」
新庄はそう言ったものの、その「もう一つの理由」というのをなかなか話そうとはしなかった。
「なんですか。もう一つの理由というのは」
日登美は痺《しび》れを切らして先を促した。
「それが……あなただというのです」
新庄は言いにくそうに言った。
「わたし?」
日登美はびっくりしたような顔で新庄を見た。
「彼は……どうやらあなたに、その……思慕の念を抱いていたようです。ここを追い出されたら、もう二度とあなたに会えなくなる。そう思ったら、何もかもがどうでもよくなってしまったと……」
「…………」
日登美は言葉もなく目の前の男の端正な顔を見つめた。
矢部稔が自分に妙な感情を抱いている。そう感じたのは自意識過剰でもなければ気のせいでもなかったのだ……。
「自分ではあなたへの思慕の感情をひた隠しに隠していたつもりなのに、秀男君に悟られてしまった。だから、秀男君は、あなたから彼を遠ざけるために、突然解雇を言い渡したに違いないと……」
「そんな馬鹿な」
日登美は思わず悲鳴のような声をあげた。
矢部の不審な行動のことは、自分の胸ひとつにおさめ、秀男にも徹三にも話してはいなかったし、秀男がそのことに気が付いていたとも思えなかった。
「主人が解雇を言い渡したのは、あの子がまったく仕事をおぼえようとする気もなく、主人や父の言うことを素直に聞こうともしなかったからです。それに、あの夜、未成年だというのに、お酒など呑《の》んで帰ってきて……。それで、主人はもう面倒が見切れないと見限ったんです」
「まあ、すべては彼の妄想というか、逆恨みと言ってしまえばそれまでなのですが……」
新庄は日登美をなだめるようにそう言った。
「とにかく、秀男君に解雇を言い渡されたあと、部屋に閉じこもって、そのことばかり考えていると、アルコールが入っていたこともあってか、だんだん秀男君や徹三さんのことが憎くなってきたというのです。そして、ついには、それが殺意にまで高まってしまった……」
秀男と徹三を殺すことを思いついた矢部は、そのときちょうど、自分の部屋の前を通り過ぎる足音を聞いたのだという。それが、終《しま》い湯に入りに行く日登美の足音だとすぐに分かった。
そこで、彼は、部屋をこっそり出ると、台所に行き、出刃包丁を持ち出した。風呂場《ふろば》に寄って、日登美がまだ風呂に入っていることを確かめると、足音を忍ばせ、二階にあがった。
寝室でいびきをかいて寝ていた秀男の上に馬のりになると、その胸に何度も包丁を突き立てた。
そして、そのまま階下まで降りてくると、徹三の寝室に入り、秀男を殺したのと同じやり方で徹三を襲った。だが、そのとき、隣に寝ていた歩が目を覚まし、自分につかみかかってきたので、つい手にした包丁で刺してしまった。
これだけのことをやり終えると、矢部は自分の部屋に帰り、全身に返り血を浴びた姿のまま、布団《ふとん》をひっかぶって震えていたのだという。
日登美は新庄の話を聞きながら、呆然としていた。あの夜のことをまざまざと思い出したのだ。
風呂場に行こうとして、矢部の部屋の前を通ったとき、ドアの隙間《すきま》から明かりが漏れていたこと。あのとき、あのドア一枚隔てた向こうでは、矢部稔が、親鳥が卵を抱くように、恐ろしい考えを暖めていたというのか……。
そう考えると、今更ながらに、肌《はだ》に粟立《あわだ》つ思いがした。
「……魔に見入られるという言葉がありますが、あの夜の彼はまさにそんな状態だったのかもしれません。矢部自身、あの夜のことを、まるで自分ではない何かに操られているようだったと言っているそうです。実際、一連の犯行を終えたあと、彼は突然、正気に戻ったというのです。あのあと、逃げも隠れもせず、自分から警察に電話をして自首したことから見てもそれは本当だと思います。供述も素直にしているそうですし、心から自分のしでかしたことを後悔しているというのも嘘《うそ》ではないようです。だからといって、彼のしたことが許されるわけではないのですが……」
新庄は沈痛な面持ちでそう言った。