目の前の凄惨《せいさん》な光景に、日登美の両膝《りようひざ》からすーっと力が抜けた。
何も考えられない。頭の中が空白になってしまった。
寝室の入り口にへたりこみながら、日登美はうわ言のようにつぶやいた。
うそ……。
これは夢?
わたしは悪い夢を見ているの?
そんなつぶやきだけがわんわんと真っ白になってしまった頭の中で鳴り響いた。
どのくらいそうしていただろう。時間にすればほんの数秒のことだったのかもしれない。
魂が抜けたように座り込んでいた日登美は、ようやく我にかえって跳ね起きると、布団の上の血まみれの夫の身体にしがみついた。
「秀男さんっ。返事をしてっ」
殆《ほとん》ど絶叫のような声をあげて、ぴくりともしない秀男の身体を狂ったように揺さぶった。夫の身体はまだ生あたたかかった。
しかし、瞼《まぶた》はかたく閉じられ、既に息はなかった。
「お父さんっ」
日登美は、まるで子供にかえってしまったような声で父を呼んだ。何が起きたのか分からなかった。なぜ、ほんの数時間前までいびきをかいて寝ていた夫が、今こうして鮮血にまみれ物言わぬ物体のようになって横たわっているのか。
「お父さんっ、お父さんっ」
日登美は洗い髪を乱し、夫の血をパジャマにつけたまま寝室を飛び出した。二階の廊下の途中で、母親の半狂乱の様をぽかんと見ていた春菜が、また火がついたように泣き出した。
子供心にも、何か非常事態が起きたということを察したらしかった。
しかし、そんな春菜に日登美はかまっていられなかった。自分にすがりついてくる娘をつきとばすようにして階段を駆け降りた。それは降りるというより、半ば足元から墜落するというような降り方だった。
階下はなぜか静まり返っていた。
春菜の泣き声がサイレンのように響き渡り、日登美の絶叫や騒々しい足音が階下にも聞こえたはずなのに、一階の寝室に寝ている徹三も歩も起きてくる気配がまるでなかった。
無人の家のように静まりかえっている。
深夜にたてた物音がどれほどのものだったか、それは隣家の飼い犬が不穏な声で吠《ほ》えはじめたことでも分かる。
それなのに、同じ家に住む父も息子も起きてはこないのだ。
なぜ?
日登美は心臓を冷たい手で鷲掴《わしづか》みされたような恐怖をおぼえた。
お父さん。
歩……。
膝《ひざ》ががくがくと震えて立っているのがやっとの状態だった。父の寝室の前まで来ると、日登美の全身から最後の力が抜けた。
寝室の襖《ふすま》は閉まっていた。だが、襖の表には、べっとりと赤い手形のような跡がついていたのだ。
日登美には、その襖を開ける勇気がすぐには出なかった。
それでも、ようやく勇気を振り絞って、一気に襖を開けた日登美の目に飛び込んできたのは、二階の光景よりもさらに凄《すさ》まじい光景だった。
並べられた二つの布団の上で、寝間着姿の徹三と白いパジャマを着た歩が折り重なるように倒れていた。
二人とも血まみれだった。
徹三の浴衣《ゆかた》のはだけた胸には、内臓の色が見えるほどぱっくりと口を開いた傷口が無数につけられていた。
その上に折り重なるようにして、うつ伏せに倒れた五歳の幼児は、壊れた人形のように見えた。
真っ白なパジャマがまるで赤いパジャマのようだ……。
日登美は、自分が叫び出すのを恐れるように、両手を口にしっかりと当てていた。
そして、そのあまりにも非日常的な光景を今にも飛び出しそうな目で凝視しながら、日登美の頭は妙に日常的なことを考えていた。
歩の髪がずいぶんのびている。
明日、切ってあげなければ……。
それが、日登美が気を失う直前に彼女の頭をよぎった唯一の考えだった。