「……さぞ驚かれたでしょう。突然訪ねてきた見も知らぬ男からいきなりあんなことを言われて……」
神聖二は、リビングルームのソファに腰掛けながら、そう言って苦笑した。
「でも、あなたにお会いするのははじめてではないんです。お忘れかもしれませんが、以前、『くらはし』の方にも一度顔を出したことがあったんですよ」
神にそう言われて、日登美はあっと思った。ようやくこの男をどこで見かけたか思い出したのだ。もう半年以上も前になるが、客として店に来たことがあったのである。そのときの記憶が日登美の脳裏にかすかに残っていたらしい。
「『くらはし』といえば、このたびはたいへんでしたね……」
神は傷ましそうな目で日登美を見ながら言った。
「新聞で事件のことを知って驚きました。早くお会いしたかったんですが、あなたもあんなことがあって心の整理がすぐにはつかないだろうと思って、ほとぼりがさめるまで待っていたんです」
「あの……前にお店にいらしたときには、わたしが神緋佐子の娘だとご存じだったんですか」
日登美は尋ねた。
「ええ、まあ。というか、それを確かめるために客を装って店に行ったんです。というのも……」
聖二の話では、日登美のことを知ったきっかけは、ある雑誌の「隠れた名店紹介」という記事だったのだという。
「あの記事を僕もたまたま目にしていたんです。あれには店で働くあなたの写真が載っていましたよね?」
日登美はあのときのことを思い出した。取材の人が、ぜひ日登美の姿を店をバックにして撮りたいというので、気が進まなかったが被写体になったのだ。
出来上がった雑誌を見たとき、大きな活字で「美人妻」などと書かれていて赤面した記憶があった。
「あのときはびっくりしました。あなたの顔が失踪《しつそう》した緋佐子さんにあまり似ていたものですから」
「失踪?」
日登美は思わず聞き返した。
「ええ、村ではそういうことになっていました。二十六年前のことです。ああ、村というのは、長野県の日の本村というところですが。緋佐子さんはそこの生まれなんです……」
聖二の話はこうだった。
聖二の父、神|琢磨《たくま》は、その日の本村で、日の本神社という千年以上も続く古社の宮司をしているのだという。緋佐子は琢磨の妹だったが、二十六年前の春先、何の書き置きも残さず、生まれたばかりの日登美と共に忽然《こつぜん》と村から姿を消したのだという。
すぐに警察に捜索願いが出されたり、村の者が手分けして探したりしたが、結局、緋佐子母子のゆくえはようとして知れず、二十六年がむなしく過ぎた頃、たまたま、聖二が目にした雑誌に緋佐子にそっくりな女性を見つけて、もしやと思ったというのだ。
「緋佐子さんが失踪したとき、僕はまだ二歳かそこらで、叔母の顔はおぼえていなかったのですが、緋佐子さんの若い頃の写真は見たことがありましたから。それでぴんときたのです。さっそく父と相談して、僕がそれを確かめるために上京したんです……」
そのあと、聖二は、新宿にある探偵社に出向いて、「くらはし」のことを詳しく調べさせたのだという。そこで、緋佐子が既に亡くなっていたことを知ったらしい。
「それなら、どうして、店にいらしたときにそのことを話してくれなかったんですか」
日登美は不思議に思ってそう尋ねた。
「話したいという気持ちはあったのですが、今さらそんな昔のことを話してどうなるものでもないと思ったんです。緋佐子さんは何か事件に巻き込まれたわけではなく、自らの意志で、倉橋徹三さんの下に行かれたのだということも解りましたし。それに店で働くあなたの姿はとても生き生きとして幸せそうに見えました。優しそうなご主人と可愛《かわい》いお子さんたちに囲まれて。今のあなたの生活を壊したくないと思ったのです。それで、結局何も言わずに帰ってきました」
「あの……もしかして、母は結婚していたのではないですか。その日の本村というところにいる頃に……」
日登美はためらったあと、思い切って、そう聞いてみた。
「結婚?」
聖二はびっくりしたような顔をした。
「いいえ、そんなはずはありません。緋佐子さんが村を出たときは独身でした。独身のまま、あなたを出産されたのです」
「それなら、どうして……母は父と正式に結婚しなかったのでしょうか」
「それは……」
聖二はやや難しい顔になって言った。
「もしかしたら、日女《ひるめ》の掟《おきて》を緋佐子さんなりに守り通そうとしたのかもしれませんね……」
「ひるめの掟?」
日登美は聞き返した。
「神家というのは千年以上も昔から大神に仕える一族なのです。とりわけ、神家に生まれた女は、日女と呼ばれて、大神の妻となるべく生まれた特別な存在なのです。ですから、一生涯、誰とも結婚することを許されないのですよ……」