「……須佐之男だけではありません。出雲神話のもう一つのハイライトである、あの大国主命の国譲り神話にしても、実は、大和朝廷と物部の闘争を暗に表しているようにも見えるのですよ。
記紀では、神武天皇が大和いりしたとき、既にそこには天界から天降《あまくだ》りしたニギハヤヒノミコトという天孫族の神がいて、その地の族長であるナガスネヒコという者の妹を妻に娶《めと》っていたのですが、神武に大和の覇権を要求されたニギハヤヒは、神武に逆らおうとするナガスネヒコを切り捨て、その覇権を神武に譲り渡したと書いてあります。
もっとも、物部伝承では、このとき、ナガスネヒコは密《ひそ》かに大和を逃れ、遠く東北まで逃げ延びたとされています。つまり、外物部とはこのナガスネヒコの子孫だというのです。
これは、ちょうど、大国主が天照大神からの使いの神に出雲の覇権を要求され、譲り渡した話によく似ています。
古事記によると、この国譲りのとき、大国主の子供の一人である事代主命《ことしろぬしのみこと》は、国譲りに賛成しますが、もう一人の子供であるタケミナカタノミコトは猛然と反対し、使いの神と力競べをします。結局、これに負けたタケミナカタは、出雲を追われ、遠く信州の諏訪《すわ》まで逃げ延び、追いかけてきた使いの神によって、その地に封印されるのです。今もなお、タケミナカタは、諏訪大社の上社のご祭神として祀られています。ちなみに、このタケミナカタも蛇神であると言われています。
実は、タケミナカタだけではありません。大国主にも蛇体説があるのです。大国主を主祭神として祀った出雲大社の御神体は三重にとぐろを巻いた海蛇だとされています。
そもそも、正月に日本人が神だなに供える鏡もちというのは、三重にとぐろを巻いた蛇の姿を模したものなのですよ。今でこそ、丸餅を三重に重ねるような形になっていますが、古くは、餅を細長く棒状に練って蛇に見立て、それを三重にしたものなのです。鏡もちという名も、本来は、カガというのは蛇の古語ですから、蛇身《かがみ》、つまり、蛇の身の餅という意味なのです。
ついでに言えば、あのしめ縄も、本来は、雌雄の蛇の交合の様を模したものと言われています。さらに、御幣は、蛇の鱗《うろこ》を模したものなのです。
蛇という概念は神道のいわば心臓部にあたるほど重要なものなのです。ですから、由緒正しい古社であればあるほど、蛇との縁が深く、蛇にまつわる何らかの伝説があるのは当然のことなのです。
そう考えれば、ヤマタノオロチの伝説を持ち、蛇を神として貴ぶ風習が古来からあった出雲で、蛇を祀った神社がないという方がよっぽど奇妙なのです。
これは、ないのではなく、あったことを権力側の思惑で巧みに隠蔽《いんぺい》されてしまったと言った方がいいと思うのです。
つまりは、出雲大社のご祭神も本来は蛇神だったのではないかということです。出雲も物部と縁のある土地ですから、物部によって、大蛇の神が祀られていたとしても不思議はありません。
実際、記紀には、大国主の荒魂《あらたま》が三輪山の神だという記述があります。ただし、これは逆ではないかと思いますね。三輪山の大蛇神が、出雲でも祀られていたのではないかと思うのです。さらに言ってしまえば、伝説の中ではおどろおどろしい怪物にまで貶《おとし》められてしまった、あのヤマタノオロチこそが、出雲大社の正統な主祭神であったとも考えられるわけです。
しかし、朝廷側にとっては、この事実は隠しておきたいことだったのです。由緒ある大社のご祭神が蛇だということは……。
だから、三輪山の日神を伊勢に移すときに、蛇神であることを隠してしまったように、大国主の場合も、因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》を助ける気の優しい大黒《だいこく》様の話などをかつぎだしてきて、真のご祭神の姿を隠蔽しようとしたのです。
これは神社側にとっても同じ思いだったでしょう。時代が移るごとに、日本人の蛇に対するイメージは畏怖《いふ》から嫌悪へと悪くなる一方ですから、そんな悪いイメージの蛇と神社とが根の部分で深くかかわっているという事実はあまり大っぴらにはしたくないことだったのかもしれません……」