左の道をしばらく行くと、涼しげな葦《あし》のすだれのずらりと並んだ重厚な構えの日本家屋が見えてきた。神家の住居らしかった。どっしりとした古い屋根瓦《やねがわら》の趣といい、かなりの旧家のようだった。
聖二は玄関の前で抱いていた春菜をおろすと、戸を開けた。広い三和土《たたき》に立って、「ただ今、帰りました」と奥に声をかけた。
すると、その声に応《こた》えるように、奥の方から、一人の女性が走り出てきた。年の頃は、五十代後半といったところで、小柄で痩《や》せこけており、割烹着《かつぽうぎ》姿のままだった。
「お帰りなさいませ」
その女性は頭に被《かぶ》っていた手ぬぐいを毟《むし》り取るようにしてはずすと、上がりかまちに両手をつき、深々と頭を下げた。
「母の信江です」
聖二はそう紹介した。
日登美も挨拶を返していると、奥の方から、もう一人、初老の男性が足早に出てきた。
こちらは六十前後の年頃で、頭には白いものが混じっている。やや腹の突き出た大柄な体躯《たいく》に白衣と浅葱の袴を着けていた。
「これはこれは、日登美様、春菜様……。よくぞお帰りくださいました」
聖二の母同様、上がりかまちのところに袴の膝《ひざ》を折り、両手をついて頭をさげる。
「父の琢磨です」
聖二はそう言った。
「く、倉橋日登美です。お世話になります……」
日登美は、宮司夫妻のこの丁重きわまる出迎えに、またもやどぎまぎしながら、ぎこちなく頭をさげた。
この人が母の兄にあたる人なのか……。
そう思うと、胸がふいに熱くなった。
神琢磨の顔には、頬《ほお》や目の下に染みやたるみはできているものの、若い頃は、聖二のような美青年だったのだろうと思わせるものがかろうじて残っていた。
「さぞお疲れでしたろう。おい、風呂《ふろ》は沸いているのか」
神琢磨はかたわらの妻にどなりつけるような口調で言った。
「あ、はい。支度はできております」
宮司の妻はかしこまったままそう応えた。
「ささ、どうぞ、おあがりください、日登美様」
立ち上がった琢磨は、日登美の手からスーツケースを奪うように取ると、それを妻に押し付けた。
「何をぼけっとしておる。早くお部屋にご案内しないか」
またもや妻に向かってどなりつけた。
「は、はい」
宮司の妻は、スーツケースをさげると、まるで旅館の仲居のような物腰で、日登美に向かって、「こちらでございます」と先を促した。
いつのまにか、四人の幼い男の子たちが物珍しげな顔で集まっていた。いずれも、女の子のような奇麗な顔立ちの子供ばかりだった。聖二の弟たちに違いない。
「あっちへ行ってなさい」
神信江は、子供たちを蹴散《けち》らかすようにしっしと手を振った。
すると、四人の子供たちは、蜘蛛《くも》の子を散らすように散ったが、立ち去りはせず、太い柱の陰から、かたまってじっと日登美たちを眺めていた。
春菜も同年配の子供たちの存在が気になるらしく、男の子たちの方をしきりに振り返っている。
日登美はそんな春菜の手をひいて、神信江の後に続いた。玄関から奥に続く薄暗い廊下は鏡のように磨き抜かれており、その長い廊下を何度も曲がって、辿《たど》りついたのは、日当たりの良い八畳ほどの和室だった。
壁の掛け軸や、文机《ふづくえ》などの調度品はかなり古びてはいたが、畳だけは、最近張り替えたばかりらしく、青々として、イグサの良い香りがぷんとした。
葦のすだれが微風に揺れる縁側では、色|硝子《ガラス》の風鈴が涼しい音色をたてている。
「ただ今、お茶をお持ち致しますので」
信江は、スーツケースを部屋の隅に置くと、そう言い残して、足早に消えた。
そのとき、ふと鈴の音を聞いたような気がした。最初は風鈴の音かと思ったが、違うようだ。りんりんという鈴の音色は、ある一定のリズムを持って、外から聞こえてくる。
日登美は窓を開け放したままの縁側に出てみた。
すると、庭を挟んで、向かいの部屋に人影が動くのを見た。
女性のようだ。
腰の下までありそうな長い黒髪をひとつに結んでたらし、白衣に濃い紫色の袴を着けた若い女性が、両手に鈴を持ち、舞のようなものを一人で舞っていた。
黒髪の陰からちらりと見えた横顔が青白く臈《ろう》たけて、息を呑《の》むほど美しい。
あれが、聖二の姉という人だろうか。
日女《ひるめ》とかいう……。
白衣に紫の袴という巫女《みこ》のようないで立ちに、日登美はふとそう思った。
背後で足音がしたかと思うと、信江が茶菓を載せた盆を持って入ってきた。
日登美は、信江の方を振り向いた。
「あの方は……?」
目で向かいの部屋の方を指し示すと、茶をいれていた信江は、そちらの方をちらりと見やり、
「ああ、あの方なら耀子様でございますよ」と言った。
耀子様?
まさか、自分の娘を「様」付けで呼ぶはずはないから、聖二の姉ではないのだろうか。しかし、太田村長が別れ際に、「耀子様があんなことになって……」と言っていたことを思い出した。
日登美はいぶかしく思い、それ以上聞こうとしたとき、聖二が部屋に入ってきた。
聖二が入ってきたのとすれ違いに、信江は空になった盆を持って、そそくさと出て行った。
聖二は両手に何やら装束《しようぞく》のようなものを抱えていた。
「この廊下をまっすぐ行った突き当たりに湯殿《ゆどの》があります。そこで一汗流したら、これに着替えていただけませんか。お疲れのところ申し訳ありませんが、お社の方にご挨拶に行かねばなりませんので」
畳に膝を折り、抱えていた装束のようなものを日登美の方に差し出すと、聖二はそう言った。
見ると、それは白衣に濃い紫色の袴の一式だった。
向かいの部屋の女性が着ていた装束と同じもののように見える。
「あの、聖二さん……」
日登美は思わず言った。
「はい?」
聖二は二重の涼しい目を見開いて、日登美の顔をまっすぐ見た。
「向かいのお部屋にいる方は……?」
そう尋ねると、聖二は、ちらと外に目を遣《や》り、「姉です」と即座に応えた。
「耀子さんとおっしゃる……?」
重ねて聞くと、聖二は頷《うなず》いた。
「でも、さっき、信江さんは、あの方のことを『耀子様』とまるで……」
そう言いかけると、聖二は、質問の意味を察したらしく、すぐにこう言った。
「前にも話したと思いますが、この村では日女様は特別な存在なのです。それは神家の者にとっても同じです。うちでは、日女様のことは、たとえ自分の娘であろうと妹であろうと、『様』を付けて敬語で話す習わしがあるのですよ。ですから、僕も、これからは、あなたのことを、『日登美様』と呼ばせていただきます。慣れないうちは少々気恥ずかしいでしょうが、なに、そのうちすぐに慣れますよ……」
そういうことだったのか。
だから、村長や宮司夫妻ですら、自分に対して、妙に物々しいしもべのような口のききかたをしたのだ。
日登美はようやく合点がいく思いがした。
「それでは、あとでお迎えにあがります」
そう言って、聖二が立ち上がりかけたとき、廊下側の襖《ふすま》の陰からくすくすと子供の笑う声が聞こえてきた。
見ると、幼い男の子が二人、襖の陰から小リスのように顔を覗《のぞ》かせていた。さきほどの子供たちだった。
「二人とも隠れていないで、日登美様と春菜様にちゃんとご挨拶しなさい」
聖二が後ろを振り向いてそう言うと、二人はもじもじしながら中に入ってきた。
「七男の翔太郎とその下の郁馬です」
聖二は弟たちを紹介した。
子供たちは畳に紅葉《もみじ》のような小さな手をついてぺこんとお辞儀をした。
「お幾つ?」
二人の仕草の可愛《かわい》らしさに微笑みながら、日登美が尋ねると、翔太郎は、「五歳」と口で答え、郁馬は、「三歳」というように指を三本たててみせた。
五歳といえば、ちょうど歩と同じだ……。
日登美は、翔太郎のあどけない顔に、亡くなった長男の顔を重ね合わせ、ようやくかさぶたになりはじめていた傷口を掻《か》き毟《むし》られるような思いがした。
しかし、その思いをあえて封印し、
「郁馬ちゃんは春菜と同い年なのね。仲良くしてね」
そう言うと、郁馬は春菜の方を見て、照れたようにうふふと笑った。春菜も、興味しんしんという顔で、二人の方を見つめている。
「一緒に……あそぼ」
郁馬がたどたどしい口調で言った。
「うん!」
春菜は嬉《うれ》しそうに立ち上がった。
「春菜様は日女様になられるお方だ。二人ともそそうのないように気をつけるんだぞ」
聖二が釘《くぎ》をさすように言った。
「はい」
弟たちは元気よく答えると、春菜と手をつないで出て行った。