わあっという子供のかん高い泣き声が聞こえてきたのは、日登美が湯殿からあがって、部屋に戻り、聖二から渡された装束を身につけようとしていたときだった。
春菜の声に似ていた。
何事かと、日登美は慌てて部屋の外に出た。
泣き声は、廊下沿いの部屋から聞こえてきた。
行ってみると、四畳半ほどの和室の真ん中で、春菜が顔を真っ赤にして泣きわめいていた。そのそばで、郁馬が、ブリキのロボットを両手で抱き締めるようにして、こちらも半べそをかいている。
二人の間で、翔太郎が困ったような顔で突っ立っていた。
「……どうしたの?」
日登美が聞くと、春菜は、「あの子がぶったあ」と、郁馬の方を指さして訴えた。郁馬は涙目で春菜を睨《にら》みつけている。
「春菜ちゃんが、郁馬のロボットに触って足とっちゃったから……」
弟の代弁をするように、小さな声でそう説明したのは翔太郎だった。
見ると、確かに、郁馬が大事そうに抱き締めているロボットの片足が取れて転がっていた。
徹三や秀男に甘やかされて育ったせいか、春菜には、女の子にしては幾分粗暴で、我がままなところがあった。
「ごめんね、郁馬ちゃん。おばさんが後でロボットの足なおしてあげるから」
玩具をめぐるたわいもない子供の喧嘩《けんか》だと分かって、日登美はほっと胸をなでおろすと、郁馬にむかって優しく言った。
郁馬は、涙目のまま日登美を見上げていたが、ふいにその目が脅えたような色を帯びた。
しかし、その目は日登美ではなく日登美の背後に向けられていた。
振り向くと、声を聞き付けて駆けつけてきたらしい聖二がそこに立っていた。
白衣に浅葱《あさぎ》の袴《はかま》姿になっていた。
無表情で郁馬を見下ろしていた聖二は、つかつかと部屋の中に入ってくると、いきなり、ものもいわずに、弟の顔を平手で二度ほど殴りつけた。
ばしっばしっと鋭い音がして、郁馬の両頬《りようほお》が真っ赤になるほど、それは容赦のない往復ビンタだった。
郁馬は火がついたように泣き出した。翔太郎の方も自分が殴られたように脅えて立ちすくんでいる。
春菜も泣くのをやめてぽかんとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。悪いのは春菜の方みたいなんです。郁馬ちゃんの玩具を壊してしまったらしくて……」
日登美は、これまで物静かに見えた聖二が、幼い弟に加えたこの突然の暴力にびっくりしながら、慌てて止めに入った。
「喧嘩の原因はどうでもいいんです。なんであれ、日女《ひるめ》様に手をあげるとは……」
聖二は日登美に向かってそう言い、声をあげて泣いている郁馬の襟髪《えりがみ》を片手でむんずとつかむと、「ちょっと来い」と言って、部屋から引きずり出した。
郁馬は、足をばたつかせ泣きわめきながら、廊下を兄に引きずられて行った。
その廊下には、二歳ほどの幼児を抱いた信江の姿もあったのだが、おろおろとするだけで、聖二を止めようとはしなかった。
しばらくすると、どこからか子供の悲鳴が断続的に聞こえてきた。郁馬の声のようだった。
折檻《せつかん》でもされているようだった。
聖二が何事もなかったような顔で戻ってきたのは、それから二十分ほどしてからだった。
「郁馬にはよく言ってきかせましたから、もう二度とあんなことはいたしません」
微笑すら浮かべてそんなことを言った。「よく言ってきかせた」とは言っているが、口で叱《しか》ったわけではないことは、耳を覆いたくなるような、あの子供の悲鳴を聞けば、いやでも想像がつく。
「な、何もあんな小さな子にあそこまでしなくても……」
日登美が聖二のおとなげなさを責めるように言うと、
「ここでは日女様が絶対の存在であることを子供のうちから知っておかなければならないのです……」
聖二は涼しい顔でそう答えた。