一人で部屋に戻ってくると、日登美は拍子抜けしたように、ぺたんと畳の上に座りこんだ。
朝食のあとも、春菜は聖二のそばを離れようとはせず、聖二に手を引かれてどこかへ行ってしまった。日登美の方を振り返りもしなかった。
一体、どんな魔法を使ったのだろう。
そうとしか思えない。たった一日であそこまでなつかせてしまうとは……。
しかし、考えてみれば、聖二は日登美の血をわけた兄であり、春菜にとっては伯父にあたるわけである。「お兄ちゃま」と呼んでいるところを見ると、春菜がそのことを聖二から聞かされたとは思えないが、本能的に、聖二が自分にとって他人ではないということを感じとっているのかもしれない。
だから、あれほどたやすく心を許したのだ……。
日登美はそんな風にも思ってみた。
急に親離れしてしまったようで、なんとなく寂しいような気もしたが、これはこれでよかったのかもしれないとも思い直した。
聖二は春菜に優しく接していたが、かといって、でれでれと甘やかしているわけではないようだった。
その証拠に、春菜のお行儀はたった一日で、母親の日登美が目を見張るほど良くなっていたからだ。
聖二には、小さな子供を意のままに操れる天性の素質でもあるのかもしれない。
ただ……。
ひとつ気にかかることがあった。
聖二が春菜が一夜日女《ひとよひるめ》に決まったと報告したときの、神家の人々の異様な反応だった。小さな子供たちはそうでもなかったが、大人たちは、一様に、困惑ともショックともつかぬ奇妙な表情を浮かべたような気がした。
とりわけ、ショックを受けたのは耀子のようだった。それに、彼女のあの聖二をにらみつけるような目……。
あれは一体……。
そんな物思いにぼんやり耽《ふけ》っていたとき、廊下にひたひたと微《かす》かな足音がしたかと思うと、襖越《ふすまご》しに、「日登美さん」という女性の声がした。
耀子の声のようだった。
「お話があります……」
襖のむこうから、妙に緊迫した耀子の声がした。
日登美は慌てて立ち上がり、襖を開けた。そこには、何やら思い詰めたような硬い表情の耀子がたっていた。
「……すぐにこの村を出て行きなさい」
耀子は部屋に入ってくるやいなや、小声で囁《ささや》くように言った。
「え?」
日登美は何のことやら分からず、ぽかんと従姉《いとこ》の顔を見た。
「今、すぐここを出るのです。春菜ちゃんを連れて。日に三本しか出ていないけれど、長野駅まで行けるバスがあります」
耀子は、幽鬼のような表情のままそう言った。
「そんな……どうして?」
日登美が聞いても、耀子は力無くかぶりを振り、
「理由はわたしの口からは言えないわ。でも、このままここにいたら、あなたは一生後悔します」
耀子はそれだけ言うと、くるりときびすを返して、逃げるように部屋を出て行った。
日登美は、心を許しはじめていた従姉に、いきなり「出て行け」と言われたことで、ショックを受けていた。
理由も言わずに出て行けとはあまりの言い草ではないか……。
耀子を追いかけて理由を聞こうと、廊下に出た日登美は、ちょうどやって来た聖二とぶつかりそうになった。
「どうしたんですか」
聖二はやや驚いたような顔で日登美を見た。
「耀子さんが……」
日登美はそう言いかけて黙った。
「耀子様がどうされたんです? 今、そこでお会いしましたが」
聖二は、後ろを振り返るようなしぐさをした。
「わたしにここを出て行けと……」
日登美が小さな声でそう言うと、聖二の顔つきがやや険しくなった。
「耀子様がそんなことを?」
「春菜を連れてすぐにここを出て行けと。そうしないと、わたしが一生後悔すると……」
「耀子様はどうしてそんなことを?」
「わかりません。それで、今、理由をきこうと思って……。もしかしたら、春菜が一夜日女に決まったことに関係があるのかもしれません。あなたがそのことを言ったとき、耀子さん、すごくショックを受けたように見えましたから」
日登美がそう言うと、聖二はやや難しい顔で考えこんでいたが、
「それは……たぶん」
と言いかけ、誰かに聞かれるのを恐れるように、日登美の腕を取って、部屋の中に入ると、襖を閉めてから、こう言った。
「嫉妬《しつと》です」