日登美はぶらぶらと散歩でもする足取りで日の本寺に向かっていた。
聖二の話では、あの寺の住職が蕎麦打《そばう》ちの名人だということだった。しかも、寺はこの村で旅館代わりにもなっているともいう。
ひょっとしたら、昔、徹三がこの村を訪れたとき立ち寄ったのではないかと思い、住職を訪ねてみようと思い立ったのである。
住職が年配の人ならば、昔のことを何かおぼえているかもしれない。母のことももっと知りたかった。もしかしたら、実の父のことも何か知っているかもしれない……。
そんな期待があった。
例の三つ叉になったあたりから、さらに十分ほど歩いて行くと、やがて、茅葺《かやぶ》き屋根の門が見えてきた。
それをくぐり、こぢんまりとした境内に足を踏み入れると、藍色《あいいろ》の作務衣《さむえ》姿の六十年配の僧侶《そうりよ》が竹箒《たけぼうき》で庭を掃き清めていた。
僧侶は、日登美の姿に気が付くと、軽く頭をさげ、じっとこちらを窺うように見ていたが、すぐにその顔に、あっという表情が浮かんだ。
「おはようございます」
日登美がそう声をかけると、
「……日登美様ですね?」
と、僧侶は問い返してきた。
その顔には、なつかしげなとでもいうような表情が浮かんでいた。
「お分かりになりますか」
日登美が言うと、僧侶は大きく何度も頷《うなず》き、「分かりますとも。一瞬、緋佐子様かと思いましたぞ。聖二様から話には聞いていましたが、本当に、緋佐子様によく似ていらっしゃる……」
そう言って、日登美の頭のてっぺんから足のつま先までしげしげと見渡した。
「住職さんにお会いしたいのですが」
僧侶の不躾《ぶしつけ》な視線に幾分|辟易《へきえき》しながら、そう言うと、
「これは申しおくれました。わたしが住職の神|一光《いつこう》でございます」
と名乗った。
日の本神社の神宮寺であったという、この寺の住職も神姓のようだった。
そういえば、この住職の顔にも、どことなく神家の人々との共通点が見てとれないこともなかった。
「もしお忙しくなければ、少しお話を聞かせて戴《いただ》けないでしょうか」
日登美がそう言うと、住職は、「いいですとも、ささ、こちらにどうぞ」と、本堂の裏手にある自宅らしき家屋に日登美を案内した。
客間のような広い和室に通され、しばらくすると、住職の家内という初老の女性がお茶を運んできた。
「……このお寺は旅館の代わりにもなっているそうですね」
日登美がそう切り出すと、
「まあ、こんな山奥の村に観光客など滅多に来ることもないのですが、それでも、まれに訪ねてみえる人もいますので、そんな方をお泊めして蕎麦などふるまっております」
住職は笑顔でそう言った。
「倉橋徹三という人を覚えておられませんか? 今から二十六年ほど前にこちらを訪ねてきたのではないかと思うのですが。わたしの父なんです。父といっても養父なんですけれど」
日登美がそう言うと、住職は、覚えているというように軽く頷いた。
「確か……倉橋さんは、わたしの打つ蕎麦のことをどこかで耳にしたとかで、お独りでふらりとみえて、ここがよほどお気に召したらしくて、かなり長い間、滞在されていったと記憶しております。そうそう、あれは、ちょうど今頃の季節でしたよ……」
「母もよくここには……?」
そう聞くと、住職の顔から笑みが消え、やや複雑な表情になった。
「ええ……。緋佐子様はたいそうな蕎麦好きでしてな、毎日、お昼には必ずみえていました。そういえば、倉橋さんとは、いつの間にか親しくなられたようで、よく、お二人で散歩などされてましたな……」
当時のことを思い出すような目で言った。
住職の話では、緋佐子が生まれたばかりの日登美を連れて村からいなくなったのは、徹三が村を出て一週間ほどした頃だったという。「当時はまさか、緋佐子様があの倉橋さんを追って行ったとはゆめにも思いませんでした。それが、聖二様からあなたの写真の載った雑誌のことを聞かされて、そのときはじめて、ああそういうことだったのか、と気が付いた次第でして……」
住職は、自分のうかつさを自嘲《じちよう》するように笑って、まるめた頭を片手でなで回していたが、例の事件のことを思い出したのか、急に鹿爪《しかつめ》らしい顔になると、
「しかし、倉橋さんもとんだことにおなりで……」
と言った。
「あの……わたしの……本当の父のことで何かご存じではありませんか?」
住職の口がすべらかになった頃を見計らって、日登美は思い切って聞いてみた。
「この村の人なのでしょうか……?」
「日登美様」
住職の顔がにわかにいかめしくなった。
「ここでは、日女《ひるめ》様のお生みになられたお子様はすべて大権現様のお子ということになっております」
「大権現様?」
「大神のことでございますよ。この寺では、天照大神のことを天照大権現とお呼びして祀《まつ》っておるのです……」
そう言って、住職は、日の本寺の由来を日登美に話してくれた。
この寺が創建されたのは、平安時代の中期頃で、当時、古来からあった神道に大陸から入ってきた仏教を習合させる、神仏習合というのが流行《はや》り、あちこちの神社の境内に寺が盛んに建てられたのだという。
当初は、神社が主で寺が従という関係だったのだが、やがて、僧侶たちの勢力が強まるにつれて、神社と寺の主従が逆転するような現象もみられるようになった。
そんななかで、日本古来の神々は、仏が衆生を救うために仮に神となって現れたものであるという本地垂迹説《ほんちすいじやくせつ》などというものが唱えられるようになったのだという。
例えば、須佐之男命を、釈迦《しやか》の住む祇園精舎《ぎおんしようじや》を守る牛頭天王という仏様と同一視し、あるいは、大国主命をインドの魔神|大黒天《だいこくてん》と同一視して祀るようになったのはこの頃からだというのである。
とはいうものの、この日の本村では、あくまでも神社が主で寺は従であるという原則は厳しく守られてきたらしい。
しかし、明治初年に、神仏分離令というものが出て、こうした神宮寺はことごとく取り壊されたり、神社と引き離されたりしたのだが、幸い、日の本寺は殆《ほとん》ど昔のままの姿を残しているのだという。
その手の蘊蓄《うんちく》がとうとうと続いた。
結局のところ、神一光も、聖二同様、日登美の実父は大神であると主張するばかりで、それ以外のことは、知ってか知らずか、何も話そうとはしなかった。
この人からも何も聞き出せない……。
そう判断した日登美が、そろそろ神輿《みこし》をあげようかと思っていると、住職は、ふと思いついたというように、
「そうじゃ。大権現様にお会いになりますか?」
と言い出した。
「え?」と聞き返すと、住職は、大神のお姿を青銅の像に刻んで、本堂の脇《わき》にあるお堂に安置してあるのだと言った。
本来は秘仏として、村人にもそのお姿は見せないのだが、神家の人々だけは例外で、いつでも望むときに参拝することができるのだという。
「……どうして秘仏にしてあるのですか」
住職のあとについて歩きながら、日登美はそう聞いてみた。
守り本尊といえば、普通は、本堂に安置されているはずである。
「実は……少々恐ろしいお姿をされているのでな……」
住職は、やや声をひそめて、そんな答え方をした。
「神家のお子たちの中で、あのお姿を見て泣き出さなかった子はいないくらいでして……」
中には、ひきつけをおこしたり、夜中に悪夢にうなされる子供もいたという。
「ただ、お二人だけ」
住職はそう言いかけ、慌てて、
「あ、いや、お一人だけ……聖二様だけが、他のお子とは違っておりましたがな」
そう言い直した。
「大神の恐ろしいお姿をはじめてご覧になったときも、泣き声ひとつたてず、じっと見上げておりましたな。それからもよく来られて、お堂の中に一時間でも二時間でもお一人で閉じこもっておられました。まだほんの五歳かそこらのお子なのに、やはりお印のあるお子は気丈なものだと感心いたしましたよ……」
住職はそんなことを言いながら、古びたお堂の前までくると、観音扉の大きな錠前をはずした。
そして、お堂の扉をギーと音をたてて開け、祭壇の灯明《とうみよう》に火を入れた。すると、真っ暗だったお堂の奥が二本のロウソクの赤い炎で照らし出された。
その照らし出された奥に安置された像を一目見たとき、日登美は思わず息をのんだ。
それは、大人でも見上げるような巨大な像だった。
上半身は猛々《たけだけ》しい武人の姿をしているが、腰から下はびっしりと鱗《うろこ》の生えた蛇体で、三重にとぐろを巻いていた。
しかも、その頭髪はすべて無数に蠢《うごめ》く小蛇であり、顔には、鏡のような形をした巨大な一眼しかついていなかった。
奇怪な人面蛇身の巨像は、その一つ目をかっと見開き、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎようそう》で、日登美を見下ろしていた。